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【雑記】・マニアからの洗礼

自分は意識して映画を観ようと思ったのは35歳過ぎてからで、まあ感想文を読んでいただければその程度の人間だとはわかるだろう。
そして、ある特定ジャンルに人が入っていくとき、必ず通らなければならない洗礼がある。
そう、マニアからの洗礼。

小田嶋隆のエッセイで、彼がSFにハマらなかった一因として「ディックって何を読めばいいんですか?」とSFマニアの先輩に聞いたら、
「全部。」、「傑作から駄作まで、全部だ。」(大意。細部は違うと思う)と言われたというのがあって、うわーい象徴的な話だな、と思っていた。

何度も書いているが基本的に、本質的に趣味の世界というのは「ベルばら」におけるフランス貴族の舞踏会のごとく、それこそ「だれがだれに声をかけるか」とか「だれだれは作法がなってない」とかの噂スズメの集うところ、陰険きわまりないところだと自分は思っている。
それは本質的なことなので、今後も変えようと思ってもぜったい変わらないだろう。

しかし、そんな自分でもウンザリすることがある。

シネマヴェーラ渋谷でやっている、ザックリ言えば「変な映画特集」に関して感想ブログなどを軽くあさると、
出てくるのは映画の面白さに反比例して退屈きわまりない文章群だった。

まあ、ずっとあらゆる映画をここ20年間くらい観続けている人は別として、

パラダイム変換としては十数年前の「映画秘宝的観点」というのがあったと思う。

もちろん、「映画秘宝」登場以前にも映画秘宝的観点で映画を観ている人たちは存在して、そうした人たちによってこそ「映画秘宝」は支持された。
が、まあたとえば「土曜日の昼間っから女囚さそりが地上波(っていうかその当時は地上波しかなかったけど)でやっていた」ことを知らない世代が出現し始めていることは確かで、そういう世代はやはり「映画秘宝」の影響を、直接的にしろ間接的にしろ、受けているはずである。

さて、じゃあ「映画秘宝」の理念とはなんだったかというと、
・映画における「オシャレ」に対抗する一種のバーバリズムの復権
・レトリックを駆使して自己陶酔的な自分語りをするタイプの「映画評」へのアンチテーゼ

これに、町山智浩が渡米してからよりはっきりしたのは、
・「映画を通して背景にある異文化を考察することの重要性」(「感性」のみで映画を観ない、「生きた知」の復権)

……というようなことだったと思う。
しかし、いくつかの映画鑑賞系ブログを観て少なからず衝撃を受けたのは、

そのような過去のパラダイムシフトが当然だと享受したうえで、
再び、「映画秘宝」が否定してきたようなタイプの批評がネット上で展開されているということであった。

すなわち、「頑迷なシネフィル」的なジャンル映画に対する差別意識などないよ、という顔をしつつ、
語っていることはしっかり単なる自分語りであったり、対象となる映画をオシャレ的観点で語ろうとするブログがいつくもある、ということだった。

言っておくが、私は映画秘宝原理主義でもなんでもない。

だが、「その手の映画」を観る人たちがかつて共有していたはずの感覚を、
軽々と無視している(あるいはかつてそういうものがあったことすら知らない)批評が存在していることには、いいか悪いかは別として素朴に驚かされる。

たとえば「宇宙からのメッセージ」は批判して、「ずべ公番長」は賞賛するというブログを読んだときはびっくりさせられた。
もちろん、何も既存の評価に従うことなどぜんぜん、まったく、微塵もないし、両者を明確に区別する考察があれば読んでみたいが、

うまく言えないが「宇宙からのメッセージ」も「ずべ公番長」も、かつては観る側の愛情でもって「許されてきた」映画ではなかったかと思う。
たとえばアニメの「ナウシカ」は好きだけど「トトロ」は死ぬほど嫌い、という人がいたら、それはその人の自由だがそれなりの説明を必要とするだろう。そういうことである。

いや、そもそもが、ここら辺はジェンダー問題にもなるかと思うので慎重に書きますが、
「まず女性が観るはずがないだろう、という観点で製作された映画」を女性が、何十年も経った後で、他の「女性も観る」と想定された映画と同列にフラットに語ってしまっていいのか? という疑問が残る(同じことは男性が女性向けの映画を、ということにも言えるが)。

またあるいは、「ひどすぎるから観る価値がある」という一種の偽悪的態度を否定、批判しつつ、けっきょくは「ひどいから観るべき」というところにおとしどころを持っていかざるを得ない「ねじれ現象」も出てきつつあるように思う。
(ここら辺は、かつては川勝正幸が「趣味の良いバットテイスト」という観点を打ち出していて、そっちの方が明確だったのだが……。)


しかし、こうしたねじれは自覚していないと、最終的には「理屈と膏薬はどこにでも付く」というところにまで行きついてしまうし、また自覚ないままに書くと評価軸がさだまらないままにいたずらにレトリックをこねまわすことになり、「言いたいことは単純なのにひどくもったいぶっている」文章が完成しかねない。

まとめると、自分は「秘宝」以降の世界に生きているのだなあ、と映画鑑賞の世界でもポストモダンを痛感させられているということだ。
まあ、レンタルやケーブルテレビで時間軸を飛び越えてどんな映画でも観られる時代だからそうなっているんだろうけれども。

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