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【雑記】・「おいおい、シュミと仕事は別でしょうが」

ローゼン麻生(麻生太郎) 秋葉原演説会&握手会レポ
ここ2、3日、巡回先の知り合いのブログなどで麻生氏の演説にはしゃぐアキバのオタクたち、という図式で報道されたテレビ番組やネット上の記事について、危惧する声がチラホラと聞かれる。

確かに、オールドスクールなオタクからすると「政治家がオタクだから」といって浮かれるなんて、ちょっと信じられないのである。
そういうわけで、あくまで個人的視点ではあるが「オタクと政治」について歴史をひもといてみよう。
以下、データとか出さないでぜんぶうろ覚えなので、その辺はメディア・リテラシーとか何とかを考えてよね。


「オタク」の母体はSFファンダムにあるらしい。SFファンのシーンとして、70年代には論争などにおいて、学生運動の檄文を模したり、SFファンの派閥抗争自体を学生運動や政治運動になぞらえたりしたこともあったらしい。
どこまで本気でどこまでパロディか忘れたが、たぶん比重はパロディの方にかかっていた。
SFファンダム自体は、「政治」が若者にとって強い興味の対象だった70年代以前から続いているが、ある時期から「政治」をパロディ化する、茶化す方向に行ったというのはあると思う。

ぶっちゃければ、オタクシーンと「政治」は、70年代半ばにかなり劇的に切り離されたのではないかと思う。
逆に言えば、切り離されたところにオタクが生まれている。

70年代後半から80年代になっても、たとえば「宇宙戦艦ヤマト」や「ガンダム」と反戦思想、といった観点で論じられたりすることはあったが、やはり「洒落」的要素がオタクの行動には強かった。なお、佐藤健志という人の評論では「ロリコンブームは、学生運動が敗北したことの反動ではないか」という説が唱えられている。

このあたりはそう雑駁にとらえていいものか? という疑問が常につきまとうのだが、映画「シベールの日曜日」がロリコン映画の古典として再評価されていたりする。
この映画は社会から排除された若者の物語で、つくられたのはもう少し前だが80年代前半に観てみると「政治運動に疲れきった人にとっての癒しの物語」とも受け取れないことはない。
また、押井守、ゆうきまさみ、とり・みきなどが学園内の疑似イベントものをたくさん描いていた。これらの作品は、現実に対するある種の諦観から描かれていたのかも、との深読みもできる。

そして80年代後半。ここらで「オタク全般」のスタイルが確立される。たとえばダサい服を着ているとかコミケを聖地として扱うとか、ロリコン、二次コンが多いとか。
そして「オタク」として政治に関わるのは(個人としては自由だが)カッコ悪いこと、というイメージはあったように思う。
あるいはミーイズムの極致として、政治に関心を持たないのがオタク、とも外部からは言われていた。
先にも書いたけどここら辺は70年代中盤、後半からの若者全般のスタンスだと、上の世代から言われた「三無主義」(無気力、無感動、無関心)とも関係している。

90年代に入ってからは児ポ法の問題だとか、あとオタクを自称している人で市議会議員だか区議会議員だかに立候補した人、いなかったっけ?
ただし、それは「児ポ法に納得のいかないところがあるから、それを代弁してくれる議員や弁護士を探そう」ということであって、特定の国会議員がマンガが好きだろうがアニメが好きだろうが、そういうこととは関係がないはずだ。

えーと、1995年からのここ10年くらいは、それ以前の10年と変わらないかな。とりあえず強調しておきたいのは、それまでは「オタク」という立場から政治にコミットできるとしたら、児ポ法や著作権法など「オタクの活動」に直結しているものだったということである。
(あ、アキハバラ解放デモがあったか。しかしこれについて語るとすごくややこしくなるのでおいておく。)

で、今回の麻生サンの街頭演説。
……に群がった人たちよ。
正直、パネルとか用意しているヤツ、アホじゃないかと思う。
頼むから勘弁してほしい。

しかし、考えようによってはオタク内にもそういうミーちゃんハーちゃん的なことをするやつが出てくるくらい裾野が広がっている、ということはいえる。
「ああいうオッチョコチョイって、どこに行ってもいるよ」みたいな感じで。

それともうひとつ重要なのは、
「オタクはオタクとして、政治にコミットメントする方法をここ20年くらい、ほとんど磨いてこなかった」
ということ。でも、それは別に悪いことではない、はずだ。
何が言いたいかというと、「『オタク』的生活スタイルは、人生のすべてを決定する何かがオールマイティにつまっているわけではない」ということを強調しておきたい、ということ。
よく「人生に大切なことはすべて○○から学んだ」などと言うが、
「オタク的スタイル」には、それはあてはまらない。
もちろん、そこから漏れた部分は違う価値観、違うものの考え方の大系から学んで補完すればいいわけである。

要は、その「補完すべき部分」が何だったのか、ということがここ10年で、オタク関係なくまじめに考えられてきたか、ということ。

たとえば「オタクといじめ」というテーマがあったとしたときに、「オタク的スタイル」の中には「なぜいじめをしてはいけないか、どうすればいじめはなくなるか」の解答など、何も含まれてはいない。
「オタクと恋愛」というテーマでも、オタク的スタイルにはモテる方法も、恋愛哲学も含まれてはいない(だからこそ、「萌え」だけで巨大な価値体系を獲得した)。

それと同じ観点で「オタクと政治」というテーマにおいても、オタクが投票のときにどうふるまえばいいか、社会に不正があったときにどういう行動を起こせばいいかの方法論など、何も含まれていないのだ。

別にそれでいいんである。「オタク」というのは倫理観の大系ではないし。「サムライ」とか「任侠」などと言った価値体系とはぜんぜん別のものなんだし。
しかし、あたかも「オタクという世界観ですべてに関われる」と思ったら、本当に、たいへんな、取り返しのつかない大間違いになる。このことは、安易に麻生太郎を支持しているオタクがいるとしたら、そういう人には言っておきたい。

この件に関しては、もともと先達のオタク(現在30〜40代)の人々が「オタクと政治」ということに関して何も示さなかったり(だって「オタクとして」政治にコミットするなんていうこと自体が考えられなかったのだから)、
実は本来、「政治にもの申す」部分を担っていたオタクの双子の兄弟である「サブカル」が大幅にその価値を後退させたりといった、ここ15年くらいの事情がある。

ごちゃごちゃ書いたが、オタクが「衆愚」の印象で外部からとらえられるのは本当に気分が悪い。ミヤザキ事件当時、「オタクは全員犯罪者」と思われていたとき以上に気分が悪い。
犯罪予備軍は警戒されるが、衆愚はただなめられて利用されるだけだからである。

麻生に関しては、そのオタク濃度について「いじる」時期は過ぎている。むしろ、彼がどの程度それを「売り物」にしようとしているか見てみる、という観点が必要なのではないかと思う。
それなら旧来の「オタク」的スタンスと矛盾しないだろう。

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