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【映画】・「きつね」

1983年
監督:仲倉重郎
主演:岡林信康、 高橋香織

シネマヴェーラ渋谷のの上映ラインナップ「妄執・異形の人々II」のひとつとして上映された作品。

北海道で氷の結晶の研究をしている科学者(岡林信康)と、病気療養している14歳の少女(高橋香織)との純愛を描く。

映画館では、熱心な青年に話しかけられている初老の紳士がおり、どうやらその人が監督本人らしい。
監督のブログも発見した。どうも製作者サイドの「視線」を感じてしまうと感想が書きにくいが、そんなこと考えて遠慮していたら何も書けなくなってしまうので思いきって。

本作は、今でいう「ロリコン」とは違った意味の、83年当時のもうちょっと切実な意味のあった「ロリコン映画」としてかなり正しい。リアルタイム、あるいは数年遅れたかたちで「時をかける少女」(原田知世のね)や「カリオストロの城」に得も言われぬ感覚を味わった人たちは、観るべき映画なのではないか。

・第1部
冒頭、北海道の広大な風景の中でやややる気なさげな大学の先生(岡林信康)と、病気療養に来た、ヒラヒラのついた服(何と言うのか?)を着たいかにも当時の「少女」といった風情のマヤ(高橋香織)とが出会った時点で心掴まれる。
その後も、この「マヤ」という子は83年当時、大の大人たちが何かを仮託した「少女」のイメージを丁寧になぞっていく。どうも親からは半ば打ち捨てられていて孤独だとか、岡林信康にオッサンゆえの魅力と憧れを感じているとか、自分が子供に見られることを極端に嫌っているとか……。

少女はなんか寄宿舎みたいなところに寝泊まりしていて、そこでは身の回りの世話をしてくれるオバサンがいる。
岡林信康が少女の名前も知らないままにその場所を突き止め、フラリと遊びに来たときもオバサンは「あんたみたいなボーイフレンドがいるとは知らなかった」と、けっこう歓迎ムード。現在ならかなり不審がられてもしかたないシチュエーションなのに。
もっとも、35歳の大学の先生が14歳の少女の家に遊びに来てもまさか下心があるとは思わない時代だったはずだ(実際、物語内でもそのような気持ちは岡林にはないように描かれている)。

14歳のマヤが岡林信康とその教え子たちとともにおしゃべりするシーンがあるが、中学生の少女を連れてきた先生に学生たちは何も疑問を持っていない。これこそが80年代前半テイスト!! 「少女を少女として愛する」人間がいることなど普通は想像できないのがこの時期ではなかったか。
そして、その一見交錯しないであろう先生と少女の人生が「純愛」を通して交錯する……。

これこそが、少なくとも私が80年代に感じていたロマンであった。それが当時の「ロリコン」イメージである。
この後の時代、「ロリコン」はどんどんストレートな描写になっていき、結果的にはポルノの一ジャンルとしか認識されなくなってしまった。現在、本作のような関係性でもって大人と少女を描くことはもうできないだろう。「少女」というのは「大人の欲望のひとつ」としてほぼ完璧に商品化されてしまったから。
そういえば、それをふまえたうえでの作品って今あるんですかね。あったらすごく興味深いはずである。

……そんなようなわけで、当然岡林信康は作中で、ある時期まで少女を恋愛やセックスの対象として見ることはない。「見たいけど見ない」のではなく、そんなことは考えもしないのである。むしろ、彼は三田佳子演じる女性(いかにもな「大人の女」)と不倫関係にある。少女は三田佳子に嫉妬する。ややステロタイプな関係性だが、これはもう、様式美としてはそういうものなのである。

で、なんだかんだあって岡林と少女は結ばれる。そこだって、岡林が少女をあるきっかけから「一人の人間、女」として認識してこその出来事であって、繰り返しになってしまうがこのような関係性というかタブーの越境の果ての純愛というか、こういうものは現代ではもう描けないであろう。

物語から終盤がいわゆる超展開だと、映画館のチラシには書いてあったが私にはしごく納得のいく展開であった。正直、どうして本作が「妄執、異形の人々II」のラインナップに加えられたかよくわからないのであるが、逆に言えばそういう一種キワモノ的な企画でもないかいぎり、上映がむずかしい話といえば話である。
何というのか……。まさか「大人の男と少女の恋愛特集」みたいのをするわけにも、ご時世としてはいかないだろうしね。

・第2部(本編とは関係ない話)
70年代後半から80年代前半は「少女」がクローズアップされつつある時代であったと思う。
しかし、扱っている方もなぜ「少女」なのかを明確にわりきってつくっているわけではなかったのではないか。
それが個人的には興味深い。
だから本作や薬師丸ひろ子の「野性の証明」や、原田知世の「時をかける少女」というのは、「どうせこういうの出しておけばいいんでしょ」という感覚とは無縁の、何とも言えない印象がある。
セックスそのものではなく、もっと抽象的で切実な何かが「少女」に託されていた。
(まあ、たぶんその辺を醒めた目で「桃尻娘」の橋本治が見ていた、という時代状況だったかも、とも思うが)

そういえば秋元康がおニャン子の一人と結婚したとき、「純愛」よりも「なんだ、やっぱりそういう目で見てたんじゃん」という印象しか残らなくて、そういう意味でも秋元は70年代後半あたりから続いていた「何かとってもせつない感じの美少女への憧憬」を終わらせた人だった。
その後、秋元(というかおニャン子)に影響を受けていたに違いないつんくが、ハロプロメンバーはおろか周辺スタッフともまったく無縁の女性と結婚した意味は、もしかしたらものすごく大きいかもしれない。

「商品に手をつけてはダメ」という倫理観を彼が持っていても不思議ではないが、それにしても、秋元がいったん終わらせたことを蘇らせたいという深慮遠謀があるのでは、と深読みしたくなる出来事ではある。

なおイメージとしての「少女」の80年代における必然性と可能性と、その限界性については大塚英志や中森明夫の著作を読むとわかると思います。

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