・マンガの長期連載について思うこと
連載漫画家は、話を引っ張るのが上手いけど、終わらせるのはヘタだよな。(島国大和のド畜生)
私も「マンガの長期連載化」、「マンガの終わらせ方」について思ったことを書いてみます。
まず個人的に、少年マンガ・青年マンガの終わらせ方に絶望していた時期があって、それは「ドラゴンボール」が魔神ブゥだっけ? なんかそういうのが出てきてダラダラ続いていたとき。
「人気のあるものはダラダラ続き、人気のないものはすぐ終わる」という法則が完全に貫かれるとしたら、
「本当に感動的な、いい感じの最終回」というのを読者はぜったいに読むことができないことになる、と思って絶望した。
しかし、希望もないことはない、と思い始めてきた。
それは「覚悟のススメ」が、ほぼちょうどいい感じで終わったとき。
「覚悟のススメ」は、最初から全10巻のつもりで描いたと作者が確か言っていて、結果的に12巻か13巻で終わった。
完全なる「人気」の理論で言えば、その倍は描かれてもいい作品だったように思うが、ちゃんとした時期に終わったことに希望を感じていた。
だが、マンガ家と編集者との話し合いなどの中でいったい何がどのようにして「連載の長さ」が決まるのかは、私がマンガ業界に所属しているわけではないからまったくわからないのだが。
もうひとつは「デスノート」が12巻くらいで終わったこと。
これは、かつて「ドラゴンボール」をダラダラ続けていた同じ雑誌とは思えないほどいさぎよかった。
(もっともっと早く終わらせるべきだ、という意見もあるだろうが、それはたぶん「少年マンガ週刊誌」の現状から照らして非現実的過ぎると思うので、私はその意見は「気持ちはわかるけど、無理だろう」と思ってしまうのだが。)
「終わらせ方」について、オールドマンガファンは苦い思いを持っているはずだ。
それは、「あしたのジョー」と「デビルマン」と「サイボーグ009」の「ヨミ編」のラストシーンが、あまりにも素晴らしく、語りぐさになるほどだからである。
一時期のマンガは明らかに「美しい最終回」を持っていて、それに憧れてマンガ家になった人もいただろう。
だが、80年代〜90年代初頭、マンガ市場が膨れ上がっていく過程では、とりあえず少年マンガ・青年マンガはひたすらに拡大・長期化を繰り返すしかなかった。
そもそも、週刊連載マンガの「本当の長さ」というのはどの程度か? ということを真剣に考えると、
本当は単行本で5巻くらいなのではないかと思う。
(ちなみに「デビルマン」の最初の単行本が全5巻。)
これ以上になると、どんな作品でもやや冗漫な印象が残らざるを得ない。
しかし、人気連載というのは現状では単行本10巻以上までは続く。
だから、「人気マンガはどんな作品でも必ず冗漫な部分がある」と言わざるを得ないところもある。
これはもう連載、単行本化、メディアミックスなどの商売に関する構造的な問題なので、どうしようもない。
だが、たぶん「デスノート」がまずまずいい感じで終わった(同じ感覚からすると、私としては「ジョジョ」の第何部、第何部という区切りも「まあ、こんなものだろう」という長さ)のは、「さすがにダラダラ続けるばかりが能じゃないよな」と、制作サイドが思ったからではないかと思う。
作品の性質もあるが、今後もう少し多様化してくるかもしれない。
「長期連載化」という観点から観た場合、おそらくトキワ荘人脈の人たちはその方法論を持っていなかった。
手塚治虫は「火の鳥」だって第何部、第何部と分かれているし、「鉄腕アトム」や「三つ目がとおる」や「ブラックジャック」は1話完結モノだ。他にもうちょっと長いのもあるが、さすがに現状のような10巻、20巻と永遠に続いていくようなマンガが手塚に描けたかどうかは疑わしい(あ、「陽だまりの樹」はちょっと長いか)。
藤子不二雄には「まんが道」があるか……。でも評伝的なものと「ドラゴンボール」みたいのはまたちょっと違うしなあ。
石ノ森章太郎も、「ドラマで引っ張るマンガ」としてはそうそう長いものはないはずである。
で、「連載の長期化」の技術を持っているとしたら、それは劇画原作者である。
梶原一騎と小池一夫。
彼らが、まず手探りで方法を考えてきた。
ところが、ちょっと思い出してみるとわかるが、
梶原一騎の作品では最終回がわりと記憶に残っているのに対し、
小池作品で最終回が印象的、というものはあまりない。
梶原一騎の作品は、まあ途中で引き延ばしたりはしているんだろうけれども、基本的にはラストに向かって集約していく印象を持つものが多い。
一方で、小池一夫はおそらく最初の単行本1、2巻あたりに命を賭ける。それによってキャラクターが確立され、連載が軌道に乗っていくと次第に薄味になっていく作品が多い。
そして、方法としては小池一夫的な描き方が残った。おそらく大量執筆する場合、梶原的方法の方が、連載が軌道に乗ってからも作品をコントロールすることに労力がさかれる。小池的展開は、ドラマで引っ張っても常にどこで切ってもいいような構造になっているから、おそらく小池一夫が業界のモロモロを考慮してつくりあげたものなんだろうと思う。
もう一人、「連載の長期化」で特徴的なのは雁屋哲である。
雁屋哲の場合、小池一夫ほどロコツに設定とキャラクターを構築して後は転がすだけ……ということはしないが、たとえばある目標を単行本5巻くらいまで定めて、人気が出て連載が長期化すると、単行本4巻くらいから別の目標を立てる。そして、まあ5巻までという想定で考えられたプロットが6巻くらいで終了しても、すでに次の10巻くらいまでのプロットはできあがっている、という感じ。
具体的には「風の戦士ダン」にそういう印象を受けた。
「美味しんぼ」ほど長期化したらその辺はどうなっているかはわからんのだけど(たいして読んでないので)、ただ「究極のメニューをつくる」という目標を設定した後に、それがどこで決定されるのかはうまいことソフトランディングさせられるだろうな、という予感はある。
これが小池作品であれば、大胆にも「究極のメニュー」をどこかでおっぽり出して無かったことにすることも平気だし、
梶原作品なら設定自体をもてあますか、「究極のメニュー」を考えすぎて息苦しい展開になるかもしれない。そして、それこそが梶原劇画の魅力だったのだろう。
その他の終わらせ方というと、
「真の最終回として想定した最終回をいったんやってしまい、後は別の話を続ける」
ということしかない。
前述の「009」の「ヨミ編以降」がそうだし(まあ、いったん連載が終わって再開したからちょっと違うかも知れないが)、
80年代ジャンプだと「ウイングマン」でポドリムス編を一度終わらせるとか、「北斗の拳」でラオウとの話を終わらせるとか、そうするしかなかった。
(そういえば、「男塾」はなぜか妙に座りのいい終盤になってます。思い出したけど。)
でも、「ドラゴンボール」があまりにダラダラ続いて、なんかそういう雰囲気でもなくなってしまったのでさらにガッカリした、と。でもいい頃合いで終わったのもあるよね、と(前述の内容の繰り返しになっちゃった。)
それと、「終わらせるのがヘタ」というのは、少年マンガにおける「短編、読みきりの軽視」ということと密接なつながりがあると思う。
少女マンガの場合、長期連載よりも読みきりや短期連載が主流だったので、イヤでも短編の技術を学ばないとデビューできなかったし、少年マンガでも「手塚賞」なんかは応募作の読みきりとしての完成度を重視していたように思う(最近は勉強不足で知らないのだが)。
だからマンガ家って、長編を描ける人でもけっこういい短編を描いた。
少年ジャンプが「愛読者賞」をやっていた頃は、まだしも「読みきり、短編」というものに読者も価値を置いていたのだと思うんだけど、
ジャンプに限って言えばそういうの、めっきり無くなったと思う。
たまに週刊少年ジャンプに載る読みきりでも、読みきり作品としての完成度よりも長期連載マンガのパイロット版、という印象の作品がすごく多くなった(ジャンプでは昔っからそういうのはあるけど、もっと露骨になった)。
新人時代から、「長期連載のプレゼン的な読みきり」ばかり描いてれば、そりゃスタートダッシュはうまくなるだろうけど、物語をまとめる力とかラストシーンを描く力は鍛えられないだろう。
そういえば、長編の終わらせ方がうまい荒木飛呂彦は、読みきり作品にもこだわりを持ってますよね。
なんだかまとまらなくなっちゃったけど、個人的にはドラマで引っ張る形式で単行本20巻以上とか、そういうのはもうやめてほしいというのはある。
やめてほしいというのはあるけど、さすがにこの「長さ」というのは読者である身にはどうしようもない。
最近のハリウッド大作が長い(2時間以上)のと似たような理由……なのかな。あとアメリカのベストセラー小説って長いんだよね。上下巻が多い。
疲れたので終わります。
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