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【アニメ映画】・「河童のクゥと夏休み」

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監督:原恵一

江戸時代に眠りにつき、目覚めた河童・クゥと少年のひと夏のファンタジー。
公開は明日までのようだが、ギリギリまで観ていなかったのはもうシチュエーションからいって映画館でぜったい泣いてしまう、と思ったからでもあった。

で、実際泣けた。

実は、日本には少年と異形の存在との出会いと別れを描いた作品は意外に少ないのではないか。むしろ「E.T.」に代表されるように、欧米に多いのではないかと思われる。
しかし、ある年代までの世代には「さようならドラえもん」のエピソードが脳髄にこびりついている。他に似たようなシチュエーションで国産のものを思いつこうと思ったら「ウルトラセブンの最終回」と「サリーちゃんの最終回」くらいしか思いつかないが、あれらもまた「異形の者との出会いと別れ」という点ではちょっと違うだろう。
あ、「999」の鉄郎とメーテルの別れがかろうじて近いのかな。

のび太が日本人における「ダメな少年」の代表であること、そして彼のサポート役であるドラえもんとの別れが鮮烈な印象を残していること(そして他にあんまりないこと)は何か重要な意味を持っているかもしれん。
ちょっと話がそれるが、思いついたことを書くと「ドラえもん」は今でも続いているが、どう考えても最後には「さようならドラえもん」になるしかない。時系列で言えば「さようならドラえもん」の後、ドラえもんは現代に戻ってきているから「さようならドラえもん」が「真の最終回」というわけでは決してない。しかし、最終回はあれしかない。
要するに「大長編だが最終回を先取りしてしまっている」という、他に類例のない作品であることが、鮮烈な印象を残している理由のひとつだろう。

また、問題となった同人誌の「ドラえもん最終回」がけっこう売れた一因として、「さようならドラえもん」を想定しつつ「その後」を描いたかのような感じになっていることがあるだろう。

マンガ版の「うる星やつら」も実はそれをやろうとしていて、あたるはラムと出会っているにもかかわらず、未来ではしのぶと結婚しているというエピソードが出てくる。自分はこのとき、「ああ、ラムはあたると最終的には別れるのだな」と思っていたが、結果的には……えーと、最終回を忘れてしまったけどあたるはしのぶとは結婚してなかったよね?
要するに「最終回の先取り」はうる星においては成功しなかったと言えるんじゃないのかな。
(まあ、似たようなことをやっているマンガは他にもあるとは思うけど、超メジャーとなると思いつかない。)

さて、「河童のクゥ」と関係ないことをだいぶ書いてしまったけど、まあ結論から言うと実に丁寧なアニメでした。
「河童と少年の出会い」というシチュエーションにおける、ほとんどのことはやっているんじゃないか。少年の家族との関係、友達、ガールフレンド(?)との関係を描き、夏休みも一人旅も描いて、社会風刺もやっている。そしてそれらは極端に乖離することはなかった。

河童のデザインも、デザインだけ観れば「かわいい、かわいくない」といろいろ意見は出るだろうが、動くと非常に説得力があった。河童の伝説では、にカエルに近い、人間の膝下くらいまでしかない小さい存在があり、一方で人間と相撲を取りたがるやや大柄なのもいる。その両者を融合して「クゥ」という存在に昇華しているのは見事だった。

思えば「河童」というのは、他の妖怪と違い、「いるわけないけど、いるかもしれない」というギリギリのラインに立っている存在である。たとえば天狗を、フィクションの中でさえ「本当にいるかもしれない」と思える人はそうはいないだろう。そのギリギリのリアリティが、現在のところ河童にはある。
河童が他の妖怪と違って存在感を発揮している理由としては、単純な話だが「水辺の存在」というのが大きい。
「水辺」そのものが、都会人からすると「あるような、ないような」というギリギリのラインで存在しているところがある。これが山や海の妖怪だと、人間と出会える機会が極端に減ってしまう。
本作の舞台が「埼玉」という都市と田舎の端境のようなところとして成立していることにも、関係してくるだろう。

原恵一監督というと「クレヨンしんちゃん」の「オトナ帝国」が有名で、「しんちゃん」の最大のおとしどころは「家族」である。「クレヨンしんちゃん」は、「家族」を盤石のものとしているからこそ、エンターテインメントたりえているところがある。
本作ではそこのところはもう少し複雑であるように思う。たとえば少年の家族が前から飼っていた犬「おっさん」が自我を持っているところや、父親がヒーロー然としていないところ、母親が、情をもって接してはいるが「クゥ」と自分の子供たちをもしかして「別」と考えているのではないかと思われる描写にそれを感じる。

作中でずっと疑問なのは少年の母親と、少年のガールフレンドみたいな存在になるいじめられっ子の少女、この二人の心理が今ひとつよくわからないところである。少年と少年の父親がけっこう単純であるのと比較すると、かなり屈折しているように私には見えたが、それが監督の女性観なのか、あるいは個々の描写を丁寧にやりすぎたために観客に深読みを許してしまっているのかは、最後までよくわからなかった。

そして最後は少年とクゥはやっぱり別れるのである。この「別れ」の趣向がなかなか面白い。そして、最後の最後には河童の行方に、それなりのおとしどころが用意されていたことにホッとしたりするのであった。
ただし、他の日本の似たようなプロットの作品にもいえることだが、「異形の者との出会いと別れを通して少年が成長する」という部分に劇的なところが、そんなにない。もっとじわっとくる感じである。映画「トランスフォーマー」も「少年が異形(トランスフォーマー)と出会って成長する話」だが、比べて観ると面白いかもしれない。
また藤子・F・不二雄は、そういう劇的なことをけっこうやる人だ、というのも思い出すと面白い。

(あー、この文章「ドラえもん最終回」との比較で面白いことが書けなかった。もうちょっと欧米の少年成長ものと比較すればよかったかな。でもそれは、観ればわかる人にはわかることだからどうでもいいとも言える。)

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