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【雑記】自分が教養について思うこと

自分が「教養」について思うことは、それが本質的に「その教養に価値を見いだし、保有しているコミュニティ」と「それ以外」を分けて、排除するというか分離するというか、そういう構造を持っているのではないかということ。

だから、オタクとかサブカル話の中で定期的に浮上する、「教養」における差異化ゲーム、選民/賤民思想というのは、私個人は「教養」そのものが持っていることだから、オタク/サブカルの範囲内だけでコトをおさめようとしてもなかなかむずかしいのではないかと考えています。

息詰まったらむしろ「そんなの関係ないじゃん!」っつってちゃぶ台ひっくり返すのもひとつの手かもね、なんて思ったりしますよ。

んだから、たとえば「オタク内でメカ(あるいは逆ベクトルとして、萌え)がわからないというのはおかしい」という論争があったとしても、「メカ」という特性、「萌え」という特性を掘り下げて考えるという方向性とは別に、

「もともと、特定の知識体系を学ぶというのは本質的にそういう面を持っている」と考えた方がいいんじゃないかと。

むろん、個々の特性というか個別具体的な意味について考えることも大切だと思うけど。

そういう意味では、ある閉じられた系の「教養」を学ぶということは、一種の解放と同時に、また別の「窮屈さ」を背負い込むことになり、たぶんそこから抜け出す道というのは、その学ぶ「教養」の中にはないんじゃないか。
それよりも、別の価値観を持ってこないといけないんじゃないか。と思っております。

そういう教養の袋小路から脱するために必要なのは「常識」なのかもしれないし、「倫理」や「道徳」なのかもしれない。あるいは「義理人情」なのかもしれない。
特定の教養体系の中にすべてがある、と考える、その出発点自体がもしかしたら間違ってるんじゃないかと、一度は考える必要があるかもしれない。

「必要なことはすべて○○から学んだ」という言葉があり、私も必ずしもそれを全面的に否定するものではないが、もしかしたらそういう考え方そのものが罠かもしれない。

以上、思いつき終わり。

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