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・マンガの長期連載2

何となく、続き。


「ドラゴンボール」を例に取ったのは、連載当時「まだ続くの?」というのが一部ジャンプ読者にも話題にされていたからで、「不自然なほどダラダラ続く」ということで言えばそういう現象はもっと前から起きていた。
だから前のエントリでも「ウイングマン」や「北斗の拳」を例として出した。
また70年代にも、小池一夫作品のなんかみたいに謎の継ぎ足しを続けてプッツリ終わるような作品があったし、梶原一騎にも正確に言えば途中でムチャクチャになったものはある(たとえば「男の星座」は、連載当初と中盤以降は明らかにコンセプトが変わってしまっている。ただし、屋台のおでん屋をやっているオカマのおじさんが出てきたあたりから、異様な迫力とある種の方向性を持ち始めた)。

さて、
いわゆる「ジャンプパターン」のおおもとが山田風太郎の忍法帖にあることは異論ないと思うが、
ジャンプパターンについて考えるなら「忍法帖シリーズ」について考えないとダメなんだろうね。
私、そんなに知らないんだけど……。
たとえばあのパターンが果たして連載を持続させるために生み出されたものなのかどうか、とか(なんかそんな気がするけど)。

山田風太郎は多作なので、破綻している作品もあるかもしれないが少なくともミステリ出身だから「敵をぜんぶやっつけました」以外のおとしどころを結末に持っている作品も少なくない。
それが忍法帖の、小説としての後続の類似作品と区別される一因になっているかもしれない。

先のエントリで「手塚だって長編化の方法論はそんなに持っていなかっただろう」みたいなことを書いたが、
「マンガの長編化」というのは何段階かに分けて考えるべきで、
たとえば「ワンピース」とか「ガッシュ」とか「からくりサーカス」みたいな長さというのは、少なくとも80年代終盤くらいまでには無かったものだった気がする。
この辺りは、編集方針とか内部事情とかいろいろあるんだろう。一読者である我が身にはその理由はわからん。

それと「続け方」にも変化があるということ。
たとえば「ドラえもん」の1エピソードでフニャコフニャオ先生が「ライオン仮面」の続きに悩む、というのがある。次から次へとご都合主義的な展開になっていくのがギャグになっているが、あれってたぶん紙芝居の方法論なんだろう。エピソードをどんどん継ぎ足していくという。
「鉄人28号」とか、劇画ブームの洗礼を受ける前の横山光輝作品って、何となくそんな感じだ(別にそれが悪いとも思わないが)。

それに対して、きちんと結末がある、あるいはあたかもきちんと結末があるかのように思わせて、新連載が始まって終わるというのがある。
単行本5〜6巻なら、結末を念頭に置いて描きはじめても、そんなにものすごい路線変更にはならないと思う。
(「エイケン」の感想のところにも書いたが、「エイケン」は当初予定していた結末を長期連載にともない変更したそうである。)
「結末にサプライズを持ってこさせるかどうか」は、マンガの場合作家がミステリとかSFマニアじゃないと、成立しにくいと思うし、それったただのこだわりにすぎなくて、たぶん人気とか次の連載がもらえるか、といったこととはあまり関係ないんだろう。

それと「長編化」においては、「ひとつの行動のディテールを細かく描いて読ませる」というのが適していると思う。
だから、スポーツマンガが長編化させやすい。
手塚マンガや石ノ森マンガのように、ひとつひとつの動作を1コマか2コマで終えてしまうような方法だと長編化させにくい気がする。お話がチャカチャカ進んで読みやすいんだけど。

そんな感じ。

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