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【映画】・「監督・ばんざい!」

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監督・脚本・編集:北野武

映画監督「キタノタケシ」は、次回作の構想に悩み抜く。ギャング映画が得意なのだが、それを封印したからだ。
恋愛映画、ホラー、時代劇、SF……。キタノ監督の迷走は続く。
そして、いつしか話は借金だらけのうさんくさい親子(岸本加世子と鈴木杏)、そして謎の政治運動家(?)(江守徹)と、彼が非常に期待を寄せている男(ビートたけし)が織りなす意味不明な物語へとなだれ込んでいく。

実はたけし映画は過去に「座頭市」しか観たことがないが、こりゃーもうこれ以上。さんの言うとおり、「大日本人」と合わせて見るとなかなかスリリングなことになる。

・その1
さて、まずハッキリさせておきたいが、本作はコメディなのだろうか? 自分は違うと思う。たけくまメモによると、たけし映画には「お笑いに見せかけたシュールリアリズム映画」の系統があるそうだ。そう言われると、確かに本作はどんなにベタなことをやっても、どこか最終的な着地点を回避しているところがあり、それの感触はまさしく「シュールリアリズム」ということになる。

対するに、松本の「大日本人」はというと、たけしほどシュールリアリズムに対する思いきりがない。たけしには少なくとも「シュールリアリズム」という着地点は見えていた。だからこそ、明確に「ズッコケ」のある古風なギャグも堂々と披露できる。そして、その部分だけ切り取ると見事にたけしのギャグになっている。
ただし、各パーツのギャグ部分をぜんぶ集めても、できあがるのは壮大な「シュールリアリズム映画」である。
それには賛否両論、あるだろう。この点に関しては、ひとまず置いておく。

次に、松本の「大日本人」だが、松本は「シュールリアリズム」という言葉、ジャンルに対してたけしほど思いきりがない。むしろ、「これって『シュール』ってヤツですよね?」とバッサリ斬られてしまうのを恐れているように感じた。
だからこそ、各パーツのギャグも、「これってギャグなんだろうかそうじゃないんだろうか?」と観客をとまどわせるものになっている(まあ、そもそもその傾向は「ヴィジュアルバム」から始まっているんだけど)。

非常に通りのいい、大学のレポートみたいなことを書くとすれば、「大きな物語」をどの程度信じているかの、程度の差がたけしと松本との間で如実に表れている、と言うことができる。

たぶん、たけしは松本以上に過去の「大きな物語」を信じている。それを大切にするにしても、破壊するにしても。
松本は、世代的にたけしの半分くらいしかそれを信じることができない。というよりも、松本のギャグの魅力は、「大きな物語」に対してつかず離れず、ギリギリのバランスで接していくということにあると思う。
たけしのように、「物語」に対してパッと二、三歩で近づいていってすばやく後ろ頭を叩いてしまうような、そういうフットワークは、松本にはない。
まあ、それが両者の魅力なんだけど。

・その2
では次に、「お笑いに見せかけたシュールリアリズム映画」としての本作について。
自分が本作を見て連想したのは、町田康の原作の方の「けものがれ、おれらの夏と」だった。すいません、映画の方はまだ見てません。
小説「けものがれ、おれらの夏と」は、冗談とも本気ともつかないシーンがジェットコースタームービーのようにつながっていき、その行き着く果てに人生の無常観がある、といったような内容の小説だった。
おそらくそのような構成の小説は過去にあり、小説であったということは過去に映画でもあっただろう。

町田康の小説と本作を比べると感じるのは、本作の方が圧倒的に「ナルシズムを感じる」ということである。
「たけし映画にはナルシズムを感じる」というのは、ネットでざっと見たが珍しい意見ではないらしいのだが、とにかくたけしのナルシズムを許せるかどうかで、本作の価値はまるで変わってきてしまうだろう。

まあ、私は好きですけどね。

ただ、こんなつくり方をしていたら少なくとも北野武監督の映画から、「シュールリアリズム」という引き出しから手放しの傑作は生まれにくいと思う。この映画の帰結がナルシズムだということは、北野監督が他にどんなシュールな映画を撮ったとしても、それはどうせナルシズムにいきつくんだ、と読めてしまう。
それに、また撮ってる方もどんどん袋小路に入り込んでいくので、好きなものを好きなように撮っているようでいて、結果的に自分を追い込んでいってしまう気がしますよ。

ただし、自分はたけしの漫才やコントで育ってきて、たけしが漫才ブーム当初「宝くじに当たった」と表現していたほどの大スターにのし上がった数奇な運命を考えるに、たけしのナルシズムというのを許してしまえるんですけどね。
やっぱりたけしは世代的には「私小説」を、みんなが当たり前のように読んでいた頃に青春時代を送った人、あるいは「映画」に、監督の作家性をすごく求めていた時代の人だなあ、という印象。

たけしの映画、本作も含めて2本しか観てないけども、「北野組」みたいのがあって、資金も潤沢で、ある程度「撮れる」っていうパターンが決まっていて今まで十何本撮ってきたのなら、今後も傑作が生まれる可能性はある、と思いましたね。
要はたけしのナルシズムと世の中がどこかでピタッと合致すればいいわけだから。

「ナルシズム」をいちばん表現しやすいのはヒーローもので、だからこその「座頭市」のヒットであり、まただからこそ、簡単にたけしはヒーローものは撮らないとは思いますけどね。

・その3
で、またひるがえって松本の「大日本人」について。
たけしは、少なくとも映画をメディアとして愛していると思うんですよね。それは映画を撮る上で非常に強い「おとしどころ」だから、観客も「ああ、この人は映画が好きなんだな」って思えばわけのわからんシュール映画でもどこかで不安をおさえることができるんだけど、

松本は「映画」というメディアを愛してないでしょう、たぶん。
っていうか「映画が好きな人が映画を撮った」って、ぜったい思われたくないに決まってるし。
「大日本人」の、よく言えば映画を知らない人の手探り感、悪く言えば「なんで映画を好きじゃないやつが映画を撮ってるんだよ」というような感じは、まあ否定できないものがある。

ただし、そういう批判すらも計算に入れているような雰囲気があって、ちょっとこの辺のことはわからないですけどね。
うーん、やっぱり松本は「笑い」ということと「今までだれもやったことのないことに挑戦する」ということにこだわりすぎているとは思う。
たけしはそれに比べて、ナルシストであることは共通しているけど「モノをつくる」にあたってのクールさがあるから。それが「ちょっと映画撮ってみました」ではおさまらないほどの本数を撮れる理由なんだろうね。

(ごちゃごちゃ書いたけど、基本的に私は普通の映画として見ても、「大日本人」は嫌いな映画じゃないんだけどね。それと北野監督の「監督・ばんざい!」も。)

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