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【雑記】あえてリンクしないわ、リンクしたら損だから

なんかどこやらで大森望がラノベについて書いていることに対し、
「SF者がラノベに口出すんじゃねー」みたいな一文があるのをどっかのブログを読んで、
まあいかにも「釣り」っぽいというか本人その意識なくてもそうとられますわね。
リンクはしません。以下のテキスト読んで賢くなってもらったら、こっちが損だもん(笑)。

でもタンカ切るにしても、さすがにもうちょっと勉強した方がいいと思うよ。

・第1部
確かに、日本活字SFは一時期ダメだったし、日本活字SFシーンがダメだった時期はある。
しかし、「現在、日本にSFは無い」というのはコメント欄も含めてあまりにもひどい言いぐさだ。

SFを語るときの混乱は、HIPHOPにたとえるとわかりやすい。
たとえば「HIPHOP」という音楽ジャンルにおいては、「どのようなリズムで何小節おきに何が入る」などの、客観的な「形式」と、
「このHIPHOPには黒人の魂が入ってない」とか「入っている」などの「オリジンからどのようにつながっているか」というコードの問題とがあると思う。

形式だけ取ってきたら、「あれはかたちだけだ」ということになるし、(最近はどうか知らないが)コマーシャルなHIPHOPというだけで、あるいは白人がやっているというだけで批判されることもあった。それは単純に「形式」というか「客観性」だけで楽曲がどうのと語れないということである。

SF(他ジャンルの表現形態もそうだけど)にも同じことが言える。
ベルヌあたりから始まって、アシモフ、クラーク、ハインライン、日本なら小松左京や筒井康隆、星新一という系譜にきちんとのっとっているかどうか、という点で言うなら、その「コード」をふまえているかどうかという点なら現在書店に並んでいる「SFっぽい作品」に関して「勝手にSF者がよそから来たものをSF認定している」ということは言えなくもないと思うけど、

SFの客観的な定義なら(たとえば定義のひとつとして科学的なトピックをふまえてそれを膨らましているかどうかとかなど)、当てはまるものはたくさんあるだろう。
「ルール」を決めて、それにしたがった世界を構築し、それを元に小説を書くとそれだけでSFっぽくなるしね。

しかも、SF、とかミステリ、という区分は「いかに客観的にそれが定義できるか」という論争が昔っからかなり丁寧に練られているから、自分の定義にそって現在の「SFコミュニティとは無関係のSF小説の系譜をふまえていない小説」をSF認定することは、さほど強引ではなくできるはずだ。
(少なくとも、現代アートから出てきた作品を「マンガ」に位置づけるよりは違和感なくできるはずである。)

ミステリにおいて「ミステリがミステリ畑から出てこない作品のおいしいところを持っていっている」というような批判が出てこないのは、いろいろな要素が考えられるけどまずSFよりもずっと「骨組み」だけしっかりしていればミステリ認定、というのが昔っからあるからじゃないかと思う。
たぶん、勘だけで書くとメフィスト系の作家が必ずしもミステリマニアとイコールではないと思うし。

じゃあ活字SFにまったく問題は無かったかというと、あったにはあったと思いますよ私は。
それはリンクしない先(笑)の話題にのぼってる「ガンダムSFじゃない論争」とかもそうだしね。

そもそもが、「オタク」の出自というのが、「活字SF」という狭いコミュニティに飽き足らない人たちが越境してつくり出したというのが私の感覚で、
その中にはSF作家自身もいたわけだし、
その中には大森望もいたんじゃないかな?

少なくとも、大森望は活字SF畑の人の中でもスポークスマンとして相当な役割を果たしていると思う。
それに罵声を浴びせるというのは、自分は大学のサークルの新入生歓迎会でとつぜんイキって先輩に食ってかかる謎の後輩、としか見えませんね。

そもそもが、日本の活字SFが80年代中盤から10年くらい、ものすごく元気がなくなったことや、その後実際に活字SF畑の人がラノベの「成果」をSFのものにしようとしている、というようなことがあったとして、
SF畑でない人間はだれも困らんでしょ。

少なくとも私は困らない。

・第2部
しかし、こういう「正しくないわけじゃないけど、ものを知らないでなんか言ってる」みたいなのが現れるというのは、止めようがないと思う。
もう、あきらめた。
なぜならそれは「受容史」の問題だからだ。

「送り手」の歴史はリリースされた作品によってきざみつけられるけど、「受容する側」の歴史というのは本当に簡単に忘れ去られる。
自分も、勉強し直して知ったことがたくさんあるし。

いつもこういう問題が浮上したときに、せめて書物のリストでもつくろうと思うんだけど、何の得にもならないので、やらない。
それに、若い人もあんまり興味を示してくれないしね。

活字SFにおいてファン活動が重要だったことを考えると、やはり作品だけを追っていったのではSFの系譜というのは見えてこないのではないか。
そして、SFの特殊な「熱気」(とくに「ミステリ」以上に「SF」)が、現在の広義のオタク・サブカル文化に継承されていることは消しようがないと思う。

具体的には今のコミケなどの同人活動は、たぶんSFファンジンの活動が元になっているし、オタクの黎明期を形成した人の中には活字SFのファンが多い。
っつーか、サブカルチャーにおいて「SF」というのが必須項目みたいに扱われていた時期があったんだよね。「ミステリ」とともに。

そしてたぶん、この辺は勉強不足でわからんが、「SF」や「ミステリ」における熱気や渇望、「どうやって世間に認知させるか」などの議論の起こった裏の理由としては、

「文学」全般の衰退があったんじゃないだろうかと思っている。

だから、50〜60年代には「文学」畑の人の中には「SF」を導入することによって「文学」を活性化させようという人がいただろうと思うし、SF自身も「文学」に取って代われるんじゃないかと思っていた時期もあったわけだ。

そうそう、そもそも活字SFが衰退した80年代中盤からの10年間は、「文学」の権威が決定的に失墜した時期でもあったんだよね。
それが呼応しているかどうかはわからないけど、
その裏には「マンガ」市場の膨張とアニメブームとファミコンブームがある。

だいたい、町田康や綿矢りさが出てきたからみんな忘れちゃってるけど、「文学」なんてほんっとうに、だれも読んでないっていうか「ここまで衰退するかー」っていうふうだったんだから。
80年代前半までは、まだ「文学者」が時代の最先端であり得た。
でもそれも、村上龍、村上春樹のダブル村上までで、
後は「面白い小説」はいくらでもあるかもしれないけど、
「時代の先端を切り取った、時代を知るために読む」小説というのは文学の分野ではものすっごく少なくなっていった。

本当は、ラノベの成果をかすめとっているのは「文学」かもしれないよね。

で、「文学」も、SFと同じくらいに「出自」にこだわるジャンルで、
「文学」が「文学」のテイを成していても、書いている人間がそれなりに「文学」の世界にとどまってくれるという証文のようなものがないと認められない、ってのがある。
芥川賞の選評なんていちいち見てないが、どうせ石原慎太郎あたりがこだわってるのってその程度のことだろ。あるいは逆に「自分はこだわってない」と見せるポーズとかさ。

芥川賞って、いちいち毎回受賞者が坊さんだとか女子大生だとか、意外なセンで決まったりするのって「いかにも文学者」じゃない人をときどき選んで世間にアピールしておきたい、ってことでしょ。

そこら辺から探らないと、「だれが何をかすめとってるか」という本質は見えてこないんじゃないかなあ。
私は、別にだれも何もかすめとってないと思いますけど。

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