【映画】・「どろろ」
監督:塩田明彦
架空の戦国時代。父親の呪いによって、身体中のパーツを妖怪たちに奪われた子供は、一種のサイボーグ手術を研究している男に助けられ、つくりものの身体を与えられ百鬼丸と名乗る。
彼は、妖怪を一匹倒すごとに、身体のパーツをひとつ取り戻すことができる。
そんな百鬼丸が腕に装着した刀を狙って追いかけ回しているのが泥棒の少年どろろ。百鬼丸とどろろの、妖怪退治の旅が始まった。
以下、ちょっと長めに書くので「続きを読む」で。ちなみにネタバレありです。
・その1
柳下毅一郎氏がブログで怒り狂っているというのを聞いて別の意味で興味があった映画だ。柳下氏の文章は、典型的な「原作原理主義者の怒り」だね。そう、人は原作のある映画やアニメを観たときに、その出来があまりにヒドイと、原作のないものに対するときの数千倍の怒りを表明するというのは映画「デビルマン」のときに明らかになった事実である。
(あるいはまた、原作を知らない観客はそこまでの怒りは持たない場合が多い、ということも肝に銘じておかなければいけないとも思う。)
まあ、そんな冷静を装っている私も映画の「墨攻」の惨状には怒り狂ったわけですが。
さて、本作を観てまず思ったのは、
「日本の現状で、ハンディキャップ・ヒーローをリアルに描くのはもうほとんど無理なんだろうなあ」ということ。
誤解を恐れずに書くなら、「(身体的な)ハンディキャップを何かの『象徴』として描くのは無理」だということ。
これは諸星大二郎の「妖怪ハンター」の1エピソードを映画化した「奇談」を観たときにも思ったことである。
映画「奇談」は、もともと精神薄弱(今、何ていうのがいちばん穏当なのか知らないのでこういう表記にしますが)である男女について描かないとどうにもならん内容である。しかし、物語の終盤はほとんどこの「ハンディキャップを持った人々をどう捉えるか」という後フォローに費やされているように感じる。
そのような状況で「目も耳も、両手も両足もない少年」である百鬼丸を描くというのなら、及び腰になってもしかたがない。
柳下氏のブログでは「どこにも差別用語が出てこない」と書いてあったが、まさしくハンディ・キャップヒーローとは、象徴的(たとえば、真っ赤なお鼻のトナカイさんがいつも笑いものになっているとか)でないレベルでの差別、決して象徴ではない肉体性を持ったハンディ、それがショッキングであり、悲しいのであり、だからこその怨念が描けるという存在なのだ。しかしそれができないのなら、もっと象徴レベルを上げてファンタジー的にハンディを描くしかない。
(読んだことないのだが「鋼の錬金術師」が象徴レベルは高いんじゃないか?)
本作「どろろ」が、CGを駆使し、「両腕から刀の生えているシーン」などを入れつつもどこかデオドラントな印象を受けるのも、(映画の現場的には仕方がないのかもしれないが)ひとえに「肉体のハンデを戦闘において有利に変え、自分をそんな姿にした父親に復讐する」という生々しさをおさえ、ファンタジー性を高めにしてしまったからだろう。
だが、この「どろろ」という原作は、それをやってしまったらわざわざ原作として使う意味がない作品なのである。
さらに言えば、そういうもろもろのドロドロした部分があってこそ「百鬼丸」というニヒル・ヒーローが引き立つのだが、そこも中途半端になってしまっている。そもそも現代にニヒル・ヒーローが受け入れられる余地があるのだろうか?
・その2
次に問題なのは、百鬼丸の父に対する百鬼丸とどろろの復讐がどう位置づけられているかということだろう。
どろろは自分の両親を殺したのが百鬼丸の父だと知り衝撃を受けるが、自分が好きな百鬼丸の父だから、という理由で復讐心を捨てることを決心する。
百鬼丸もギリギリまで父に対する憎しみの心を持つが、最後にはそれを捨てる。
さらには、百鬼丸の父は「戦乱の世を治めて平和な世界をつくるため」に百鬼丸の身体を妖怪との取引に使ったとか言い出しやがり、これに対して百鬼丸も多宝丸も納得してしまう!
まあ、どうせこんなことになるんじゃないかな、とは思っていた。
昨今、「敵を完膚無きまでにたたきのめす」というのはあまりない気がしていたから。
具体的には「SHINOBI」が似たようなラストだった。ヒロインは復讐ができる力を持ちながら、それを拒否したのだ。
これは端的に言って「911同時多発テロ」の影響だろう。「憎しみは連鎖させてはいけない」というのがここのところの流行りなんじゃないか。
ちなみに原作では、民衆蜂起みたいなことが暗示されて途中で終わっていたと記憶する。当時は当時で「民衆蜂起」という流れは、時流に乗っただけだとも言えるのだが。
肉親同士の確執、ということで言うと80年代の「北斗の拳」は、個人と公人との中間みたいな感じでケンシロウとラオウは対峙していたと思う。
ところが90年代の「エヴァンゲリオン」では、「人類の滅亡を阻止する」という大義がかかげられつつ、そこからどんどん横滑りしていって父と子の確執がグダグダになっていく(家族間の関係性のみが理由で対立を拒否する)ということになっていき、
この映画版「どろろ」ではとうとう「人々が安心して赤ん坊を育てられないほどの圧政をしいてきた父」の公人としての部分は「実は戦乱の世を鎮めるために無理をしていた」というふうに事実そのものの解釈が変わってしまう。
そして公人としての立場をいったん奇妙なかたちで切り離した後で、「復讐はいけないから相手を許そう」という話になってしまう。
まあ「時代と言えば時代だ」とも言えるし、「最初からそんな結末にするなら、つくるなよ」とも言える。
たとえばアメコミ映画を観ていると、アメリカ人は「理想的な世界の警察=ヒーロー」になることを夢見ていて、それがいろんなこと(イラク戦争がダメダメだったとか)で潰されても、その中からどう「ヒーロー」を救い出すか? ということをテーマにしている。いいか悪いかわからないが、そういう点で彼らは決してくじけない。
日本人は違う。昨今では「ヒーローなんていなくてもいい」ということを描こうとしているのではないかと首を傾げるような内容のものが多くなった。
最近つくづく思うが、日本人というのはヒーロー願望、ヒーロー待望論が希薄な民族なんである。別の言い方をすれば、日本人にとってはアンチ・ヒーローこそが主流であり、ノブレス・オブリージュを自覚した正統派ヒーローに対する興味は根本的に希薄な気がする。
そして、60〜70年代は「本音で生き、自分の手を血で汚して悪を斬る」という意味でのアンチ・ヒーローが主流だったが(80年代まで続いた「必殺シリーズ」もその流れ)、
昨今ではアンチ・ヒーローをも偽善視する「アンチ・アンチ・ヒーロー」的なやつを見かけるような気がする。「気がする」っていうだけかもしれませんけどね。
そんなことを考えながら、いくらなんでも長すぎる尺に疲れきって、ため息をつく私。
なお、少年の演技をする柴咲コウは、ふだんのただ騒いでいるときの松浦亜弥に何となく似ている。
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