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【映画】・「野性の証明」

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1978年
原作:森村誠一
監督:佐藤純彌
脚本:高田宏治

対テロ用の自衛隊特殊工作員・味沢岳史(高倉健)が、訓練中に山奥の村での殺人事件を目撃してしまったことから起こる悲劇。薬師丸ひろ子のデビュー作。

テレビ東京で、大晦日から元日にかけて吉本の若手芸人がたくさん出てきてバカ騒ぎする番組があるのだが、その中に「ぐっさんのビッグショー」という、昭和歌謡番組のパロディ的コーナーがある。
ここで、昨年も一昨年もぐっさんはこの映画の主題歌「戦士の休息」を歌っていた。

これがもうね、ものすごくいいんですよ。ぐっさんバージョンでCDを出してほしいくらいいいの。

それで、「この曲が主題歌の映画って何だろう」と思って興味を持って観たのがこれ。

そして観てみると、個人的感想としては、

「古い男と新しい美少女が、出会って、交錯して、別れていく」

という、80年代を迎える準備のような作品であることがわかった。
なお、原作は読んでません。
以下は私のこじつけなので、読みたくない人は読まないでいいよー。

高倉健は、昔から映画の中では「耐える男」だった(「網走番外地」では微妙に違うけど)。
日本の耐える男たち(女性も?)の理想、ヒーロー、それが健さんだった。

また、健さんは東映任侠映画全盛の頃から、「遅れてきた、古い男」だった。
もちろん俳優としてではない。そういう役柄が多かった、ということである。
映画の中の健さんは、たいてい不器用で、照れ屋で、古い地縁・血縁、義理、人情でつながった共同体を愛した。
しかし、敵対する新興ヤクザはそんなものは歯牙にもかけなかった。
そして、たいていの場合新興ヤクザの方が圧倒的に強かった。
だから、健さんはいつも負けるとわかっている新興ヤクザとの戦いに挑み、映画の中で何度も散っていった(タイトルは忘れたが、完全勝利してハッピーエンドのものもあるんだけどね)。

また、健さんは「外部の男」でもあった。
ヤクザは一般市民から見れば、共同体の外側の人間である。
「網走番外地」ではそういう要素が強かったかな。
「幸せの黄色いハンカチ」ではまさにそういう役だった。外部の人間が内部に入れるかどうか、という話だけど。あれは。
地縁・血縁、心のつながりに憧れながらもそこに入り込めない存在。

映画の中の健さんは、すべてのダメなもの、逆境に耐えるもの、遅れてきたもの、古いもの、外側にいるもの、内部に入れてもらえないものの味方だった。

そりゃ支持されないわけがない。

ただし、「健さん的なるもの」は、日本が豊かになるにつれてかたちを変えていく。
(「健さん」という役者個人は別にして)一般的に70年代後半から80年代にかけて、ゆっくりと姿を消していったように思う。

一方の、薬師丸ひろ子。
この頃、14歳くらいか。
現在テレビに出てくる子役に比べると、よっぽど大根だが、この子を見いだした角川春樹は、そりゃ自分に超能力があると思うよな、というくらい人気が出た。
リアルタイムでこの頃のことを覚えているが、私はこの人よりも年下になってしまうし、何度も何度もCMで見たこの頃の薬師丸ひろ子は、単なる「子役」にしか思えずアイドル的にどう評価されていたかがまったくわからない。

だから、勘で書く。
薬師丸ひろ子は、80年代に到来する「ロリコンブーム」のさきがけであったのだと(ひと言つけくわえておくと、その後成長し続けた薬師丸ひろ子が、人気絶頂のときに「ロリコンの象徴」であったことはない)。
まず、本作の薬師丸ひろ子(役名:頼子)は、「ピュア」の象徴である。そして味沢が守るべき唯一の存在だ。
これはなぜかアニメ版「キャプテンハーロック」のハーロックとマユの関係に似ている。
ハーロックにとって、マユの存在は腐りきった地球を守るための唯一の理由。それが「ピュアだから」ということだけとは必ずしも言えないが、マユが「ピュアな存在」であることは間違いないし、ハーロックにとっては「親友の娘」以上の意味を持っていることは明白である。

もうひとつくらいいい例を思い出したいが、思い出せない。

とにかく、70年代後半から80年代前半は、「少女」を「ピュアの象徴」としてとらえる場合が少なくなかった。

もうひとつの要素、頼子(薬師丸)が、ものすごい直観の持ち主、一種の超能力者のように描かれていること。
これも謎と言えば謎だが、80年代前半の多くのオタクにとっては「少女」、「ピュア」とくれば「超能力」なのだった。
(純粋な存在ほど超能力を使える、というのは超能力の解釈としてよくあるものであった。「魔法少女」がいまだにロリコン的に支持されるのも「ピュア」と魔法、超能力がオタクの意識上関連していることの証左だろう。)

ただし、頼子の超能力は味沢にほとんど何の影響も及ぼさない。ときどき暗示的なことを言うだけである。観る前は、てっきり特殊工作部隊との戦いにおいて、頼子が超能力で味沢をサポートするのかと思い込んでいた。
これがあと数年後ならば、そのような展開になったとしても何ら不思議ではない。

なお、この映画から数年後、薬師丸ひろ子は「ねらわれた学園」という超能力ものの映画にも出る。まあ今考えるとこのあたりも角川春樹のオカルト趣味が関係しているように思えるが、とにかく80年代は美少女には超能力、の時代なのである。
(95年〜96年の「エヴァンゲリオン」で、14歳の少年少女がエヴァに乗り込むことや綾波がピュアの象徴のように一部描かれたことはこのあたりと関連すると思う。そして、単に「ピュアだから美しい」ではなく、よりいっそう受難の存在に描かれたのは、少女にピュアさを求めて済む時代ではなくなっていたからだ、ということも言えるかもしれない。)

味沢と頼子。原作は知らないが、少なくとも映画では味沢のようなキャラクターは消えゆく存在であり、頼子のようなキャラクターはその後花開くことになる。いわば味沢は60〜70年代的な何かの象徴であり、頼子はその先の80年代的なものの一部の象徴であった、と思う。

味沢が消えゆく存在だった、と同じことは「太陽を盗んだ男」の沢田研二VS菅原文太の対決にも言える。
目的のないテロリスト・沢田研二と、昔ながらの刑事・菅原文太。まあ単にアクション映画だからというだけで菅原文太がキャスティングされたことも考えられないではないが、結果的にはやはりあれも「新旧対決」に見えるのだ。

映画「野性の証明」は、映画としては「まあまあの出来」としか言いようがないが、時代性を切り取ったということで言えば興味深い作品だと言える。

何よりラストシーンではちょっと泣けてしまいましたよ。
消えゆく「不器用な男」が、本当に消えようとするラストだから。
東映任侠映画と、けっきょく同じようなラストだからね。
しかも、敵が何十倍もデカくなっていた。

あれは、やはり泣けるよ。

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