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・「黙殺」とはどのレベルでの黙殺か

「黙殺」されている、超人気マンガ原作者の正体(活字中毒R。)

「語られやすいもの」と「それ以外」の差、等。(すこやか日記)

これは倉科遼のことを言っているわけですが、これはいろいろ困っちゃう話だよなぁ。ここへ来てむずかしいことになっているというか。

・第1部
呉智英はマンガ評論家の中ではかなり取り上げられにくい作品を取り上げてきた人で、
それは新左翼系の書き手が「マンガというのは大衆の欲望を反映している」というような意味でマンガを取り上げ始めたときに、「そんなこと言ったっておまえら、自分たちの主張に都合のいいように意図的に取り上げたいものだけを取り上げているだろう」っていう、一種のアンチテーゼみたいな感じがずっとあった。

だから、呉智英の「取り上げられにくいマンガ」の取り上げ方というのは、「こういうのもあるけど、インテリ層のおまえらはこれをどう自分の思想に組み入れていくのか?」っていうものだった。

そういうスタンスは、いまだに有効ではあると思うけど、
いざとなるとなかなかむずかしいというか、

「どういうアプローチで文章に乗せていくか?」ということを考えると非常にむずかしい。

たとえば呉智英は「倉科遼は黙殺されている」ということを、書いている。
それは商業出版レベルではそうかもしれないが、 「倉科遼は黙殺されている」以外の観点で倉科遼について書くのは、相当むずかしいと思う。

部数だったら「ゴリ夫」は倉科遼の1作品くらいは売れているでしょう。
だったら倉科遼と同レベルで刃森尊だって黙殺されている、ということもできる。
しかし、そういう作品に言及する際、どういうアプローチで行くか?

呉智英はおそらくマンガ評論家としては、「評論家的には評価されそうもない作品を取り上げた」最初の人のうちの一人なので私は米澤さんとともに非常に尊敬しているんですが、
じゃあ問題定義されたあとで、倉科遼みたいな作家をどう文章化していくかというのは、 これはこれで非常にむずかしい問題です。

たとえば毎年年末に出るムック「このミステリーがすごい!」は、山ほど出ている「ノベルズ」(「犬猫先生のUFO推理」みたいなものすごくどうでもいい作品群)が語られていない、という指摘に対して、

ある年の座談会では「リーグが違う」というふうに解答しているんだよね。
#まあミステリマニアだったらそう答えたくなる気持ちはわかる。

そして、それに対してもまだ読者の不満の声があったのか、その翌年には「このノベルズがすごい!」というコーナーをわざわざ設けていたと記憶する。
(また「ノベルズ」ばっかり大量に読んでるマニアというのが、いるんだよね恐ろしいことに。)

でも、ここでは重要な問題がスルーされてしまった、と自分は思っていて、
「このノベルズがすごい!」も、「このミス」内のコーナーだから「このミス」の評価基準で書かれているわけです。
しかし、「ノベルズ」というのはたぶん、本当は「このミス」読者のような視点では書かれていないし、読まれてもいない。

たぶん似たような議論は「ラノベ」でも起こっているんじゃないかな。
要するに「電撃文庫」とかが出るまではそれこそSFファンからも、ミステリファンからも「リーグが違う」と思われていたわけですよねラノベってのは。
で、それに関して評論的な文章を書こうとするとどうしても「作家性がある」、「従来のエンターテインメント作品と比べて遜色がない」という評価基準をもうけざるを得ず、
ひととおりそういう観点での評価が済んだ後に、
「しかしラノベ読者の多くはそういう観点からばかり作品を読んでいないのではないか?」という意見が出てくる。

……っていうかその前から、もしかして大塚英志とかは似たようなことを言っていたかもしれないけど。
けっきょくその繰り返しになってしまう。

私は呉智英はそういうことを言ってきたオリジネイターとしてものすごく尊敬してますが、 今後は次の段階に行かないといけないかもしれない、という気持ちが何となくある。
何となくあるが、もしかしたら図式としては仕方ないのかも……とも思ったりする。

・第2部
たまに酒飲み話で持ち上がるのが、「(マンガにおいて)評論であれが取り上げられてない、これが取り上げられてないっていうけど、別に売れてるんだからかまわないんじゃないか? それが無言の『評価』になっているんじゃないか?」というもの。
逆に言えばなぜ評論分野で取り上げられないことに、ある種の人々は軽く言えばバランスの悪さ、重く言えば危機感、を感じるのか。
……となると、これはもう「文章化する」ことに対して愛情と有効性を感じているかどうかだよね。

そう、「マンガに」ではなく「マンガについての文章」に愛情と有効性を感じているかどうか、ということになる。

(これは私の思い込みなので違うと言われればそれまでですが)呉智英の目指している理想の体制というのは一種の哲人政治だ。
で、哲人政治がうまく機能するためには、一般大衆について「哲人」が理解していなければならない。
「マンガ」は一般大衆の考えを反映するものである。だから哲人もマンガを読まなければならないが、哲人の水先案内人の役割として、マンガについての文章が必要である。あくまでも芸術を愛でて喜びに浸る、だけが目的ではないので、「黙殺される」マンガがあってはならない。

……と、こういう考え方なのだろうと思う。
だから恒に呉智英の「○○が語られてない」という主張は「(呉智英が哲人だと考える人々に、その情報が届かないという意味で)語られてない」、ということなのだ。

ただ、呉智英の想定する「哲人」のような存在が果たして本当にいるのか、という問題は残る。
たとえば、単純に言って、たぶん「ダ・ヴィンチ」の読者は倉科遼など読まないか、読んでも黙殺するだろう、という目論見のうえに上記の文章は成り立っていると言える。

こういう「ある種の『哲人』というか理想の人間像を想定し、彼らに向かって、あるいはそういう人間を育成するために、評論やレビューが必要である」という考え方はけっこうある。
たとえば映画だと町山智浩がそうだろうね。

・第3部
そりゃあ、ある種の日本人って本質的に無駄なコトが大好きな気がするから、いろんな人がいて、どんな分野にもものすごく詳しい人は必ずいる。
呉智英的視点では、それが「どういうアプローチで語られるか」ということがたぶん重要なんだろうね。
言い換えると「○○は語られてない」という言葉を発するとき、それはその人自身が何か「理想」があって、その情報プールの中にそれが組み入れられていない、と言うことができる。
これは昔からそうだったし、実は単なる愚痴に思えてけっこう重要ではある。

たとえば町山さんが編集したという別冊宝島「おたくの本」は非常に面白い本なんだけど、今読むと「オタクそのもの」の人はほとんど執筆していない。インタビュアーが話を聞くことはあっても。
それはオタクの中で商業出版に耐える文章を書く人が少なかったのかもしれないし、町山さんがわざと生の声を入れたくてインタビューというかたちにしたのかもしれない。
それともうひとつは、SFファンダム畑の話がまったく入っていない。
だから「おたくの本」を読むと、おたくの発祥とはあたかも映像文化の隆盛とともに出てきたかのような印象を持つ(もちろんこれは「歴史観」の問題で、そういう見方もある)。
大塚英志も、SFにはなじみがないのかあまりそっちについては語らない。

しかしコミケの形式が「SF大会」から踏襲された、というのは私が聞いたことでもあるし、つまり古株のSFファンから言わせれば「おたくの本」は「おれたちの生きざまがまったく入っていない」ということになるかもしれない。
まさに「語られてない」状態だということは言える。

何が言いたいかというと、「語られてない」と言う言葉が出るとき、そこには「どんなパラダイムの中で語られてないか」というのが問題になるということだ。

・第4部
まだ続く。「マニアは無視しているが大衆に受けている」作品はたくさんあるが、個人的にはそういうものもどんどん組み入れていったときに,最終的に「いくら売れているといっても、これはさすがに認められない、どうしても面白いと思えない」という領域に到達するのではないかと思っている。
だから本当は、大衆向けの娯楽作品を評する評論家がいても、まだその先があって取り上げられないもの、というのがあるのだ。

コレも尊敬する呉智英が書いていた文章で出展を忘れてしまったのだが、「新耳袋」を「耳袋」と間違えて買ってきてしまい激怒した、というテキストがちょうど「新耳袋」が出た頃にどこかに載っていた記憶がある。
それでその後に「耳袋」の重要性について語られるのだが、昔の人が見聞きした不思議話は重要で、何で現代人の不思議話は重要でないのか、ということにもなってしまう。
これは「スプーン曲げ」についての文章で、「スプーン曲げが本当にできるかどうか云々する前に、柳田国男が柄杓について書いた文章でも読みやがれ」ということにも通じてしまう。
呉智英はUFO批判(そもそもUFOなんか研究する必要はない、という意味での批判)をしていて有名だけれども、「UFO神話」の積み重ねそのものが無視できないほど蓄積されていったことはカーティス・ピーブルズの「人類はなぜUFOと遭遇するのか」を読んでもわかってしまったりするのである。

変なものばかり集めている荒俣宏がテレビゲームやくだらないマンガなどには妙に冷淡だったり、この辺の評価基準というのは、「芸術」とか「文学」という枠がはっきりしていないだけにむずかしい、もっとはっきり言ってしまえば評者の好みにゆだねられているとも言える。

無限に広がっていく「大衆が好むモノ」、限界芸術っていうのかな? それを評価して自分の主張に組み入れていくということのむずかしさが、もう浮き彫りになってもいい頃かもしれない、とは少し思うんだけどね。

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