【雑記】文字が書ければエライのか
坂東なんとか子ネコ殺し問題。
「作家は人の価値観を転倒させるのが仕事なんだから、騒ぎすぎ。どうせいくら非難や罵倒があったって痛くもかゆくもない。むしろ、そういう騒ぎを受けてさらにイラッと来る文章を書いてくるくらいのことを考えているのでは」という意見を目にした。
私自身は作家の行動と作品を結びつけてどうこう言うのはよくないと思っている。
たとえば「ドラッグ漬けになって書いたドラッグ小説」だろうが、うまく表現されていなければどうしようもないし、
倫理的な作風の作家に日常生活においてあまりに厳しい倫理観を要求するのもどうかと思う。
しかし、上記のテキストで言われていることは2点。
・作家は治外法権
・シロウトが何を言ってもムダ
ということだろう。
作家なんていう職業は、もともと畳の上で死ねないというか、「まともな人間」として捉えられていなかったのだからいちいち真に受けても仕方がないとも言えるし、逆に普通人的生活を捨てているからこそ、普通人が言えないようなことを言えるという特権を持っている。
それに、外野の言うことをいちいち聞いていたら文章なんて書けないということもあるだろう。
しかし、である。
けっきょく、私の興味は坂東サンがネコを殺しているとか、殺していないとか、中絶がどうのとかそういうところにあるのではなく、
「作家と普通人の距離はどうあるべきか?」
ということのような気がする。
書いているものが純文学かエンタテインメントかでも違うが、現代の作家というのはどのような孤高の態度をとっても最終的には客にそっぽを向かれては生きていけない存在である。
別にパトロンがいるわけじゃないからね。
だから、世間を挑発するの何だのと言ったって、そこには人間の尻尾的な哀しさがつきまとう、はずなのである。
それがどうしてもイヤなら、三島由紀夫みたいに死んでしまうしかない。
逆に言えば坂東サンに、今回「人間の尻尾」的なものが見えるかというと、
何かものすごい「作家としての」傲慢さを感じるのである。
似たようなことは昨今の栗本薫にも言えるが。
ネット上で文句を言いすぎ、騒ぎすぎ、という意見も目にするし、確かにそうだろう。
しかし、逆に言えばネットで文句を言うくらいしか、一般人はできないのである。
たぶん、坂東サンはこの件で本がまったく売れなくなり困るとか、
家の前でおかしな人が騒いで困るとか、
そういうことはないだろう(だいいち海外に住んでんでしょ?)。
ということは、単なる「言いたい放題」ということである。
繰り返すが確かに読者が騒ぐのはあまりいいことではないと思うが、
「作家だからしょうがない」という、作家がリスクや人生のマイナス面を背負った上で得た特権が、
この場合どこまで通用するか?
ということこそが問題だという気がする。
これははっきりと嫉妬心だと思ってもらっていいが、
社会的地位も高く、収入も(少なくとも)フリーター以上で、海外に住んでいるから「変なファンに襲われるかもしれない」などのリスクもなく、
それで言いたいことが言えるのなら、
それはほとんど特権階級ではないのか!?
なんでそんな特権的な立場の人間の言いたい放題出放題な言葉を、
「作家は価値観を混乱させる存在である」と言ってこちらが留保しなければならんのか。
そんな話は文壇バーででもやってくれ。
やはり、私自身がつねづねテーマとしている「大衆とそれ以外」という関係性のとらえ方は間違ってなかった。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- 無題(2018.10.31)
- ウッピピ太郎のだいぼうけん(2018.06.19)
- 【サブカル】・「鬼畜系とは何だったか」(2018.06.02)
- 【イベント】・「ネタ的なものは一切見せずに、オタクトークだけする会」第四回(2018.05.27)