【映画】・「嫌われ松子の一生」
平成のある日、53歳の松子という女が何者かに殺される。甥である青年は、父(松子の兄)から、死後の彼女のアパートを整理せよと命ぜられる。
青年は、ほとんど会ったこともない叔母である「松子」の一生を、はからずも知ることとなる。
いやこれは噂どおり感動したことであった。
だが、見る前に自分には懸念があった。
(以下、ネタバレあり)
本当に、ただ不幸な人が不幸な目に遭うことを、上から目線で描いた、あるいは単なるお涙ちょうだいで描いた映画だったらどうしよう、という気持ちがあったからである。
単なるワイドショーのように人の不幸を悲しむ建前で楽しむような作品なら、私が知る必要もない、と思っていた。
ところが、この小説の映画化を手がけるのがあの名作「下妻物語」の監督であるという。
「下妻物語」の監督が「不幸」を描くとどうなるのか?
私にはまったく想像もつかなかった。
さて、以下は私の独断と偏見による解釈である。
私は原作を読んでいないが、
観た感想としては、本作は、
「人が幸福か不幸かは、だれが決めるのか?」
というのがテーマである。
で、この映画の結論は、
「だれでもない。強いて言えば神」
ということになるのだろう。
だからこそ、松子の恋人であったやくざは、一瞬「聖書」に接近するのである。
あるいは、松子は「光GENJI 」に一瞬接近する(まあ、「光GENJI 」のくだりはギャグである可能性も高いが)。
同テーマを欧米人が描いたら、わりと当たり前でつまらない落としどころになるかもしれない。
だが日本には唯一神はいない。「浮かばれる、浮かばれない」という言葉があるが、松子を「浮かばれるように」してやるのは、甥の青年である。
本作は、甥の青年が松子の一生を(半ば強制的に)なぞることによって、松子の一生が浮かばれるようになる、という構造になってはいる。
しかし、それは目くらまし、と言って悪ければやや説明過剰な部分と言っていい。
甥の青年は松子を「報われなかったが、いろんな人に全力で尽くした愛すべき人」として、「神」のおもかげすら見いだす。
だがこれは、最後まで説明されないとわからないヤボな人向けの説明であって、松子が「神」たりうるのは「人に何をしてもらったかではなく、人に何をしたか」という価値基準に基づくものではない。
(だからこそ、元恋人のやくざも、松子の無償の愛を認めながらも、松子を拒否しつつあがめるという妙なことになってる。それは共依存的な関係ではあるかもしれないが人間と神との関係ではあるまい。)
松子が「神」たりうる本当の理由とは、松子が徹底して不器用で、不運で、人に対する理解も徹底しておらず、一人よがりだったからだ。
まあこの辺は「未知との遭遇」で主人公が、地球人の価値基準とは別のところで宇宙人に選ばれたようなニュアンスに近い。
もちろん、松子は宇宙人に選ばれるようなことはない。さらなる不幸によって、死ぬ。
しかし、その死が孤独で無様であるからこそ、松子は本作の主人公なのである。
松子は甥が自分の一生を時系列に観て理解してくれたことなど知らない。本当に、ただの孤独な死なのである。
では、それでも、そんなふうになっても、人間が生きるに値しないか。
という問いに、この映画は答えているのである。
それは当然「是」ということなのである。
「こうだったから浮かばれた」、「こうだったから浮かばれない」、そういうのは生きている人間の価値観でしかない。
その本人にとってどうだったか、というのが、他人がどう観ようが生きる価値の基準なのだということ、
こういうことを楽しく描くというのは、尋常な決意でなければできないことである。
ということで、いいものを見せてもらいました。
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