« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月

【映画】・「フーリガン」

公式ページ

ハーバード大学のルームメイトに、ドラッグを隠し持っている罪をなすりつけられたマット(イライジャ・ウッド)。ルームメイトの父親は大物政治家であり、無実の罪を訴える気も失せて命じられたままに学校を退学させられる。

傷ついたマットは、姉の住むイギリスへ。姉の夫はまっとうな社会人だが、その弟・ピートは過激なフーリガンだった。ピートに導かれ、マットはフーリガンの世界に少しずつのめり込んでいく。

わたくし、実際の暴力は大嫌いな人間であり、ちょっと恐い人を見たりすると足がすくんでしまうのだが、「自分の、あるいは他人の暴力性」をどのように自覚し、それをあやして生きていくかは人生の重要な部分だと思うのである。

本作は、フーリガン同士で「部族同士の抗争」のようなプリミティヴなケンカを繰り返している連中に、青白きインテリであったマットがいかに感化され、そこから何を掴み取ったかという映画である。
ハッキリ言えばどこぞの原住民と生活をともにして、粗野な人間性を回復していくというような定番テーマを、イギリスという先進国の「フーリガン」に置き換えたということにすぎないとも言える。
今思いついたけどスピルバーグの「激突」なんかも似たようなテーマだし、もうちょっと文学性を加味すれば「ファイト・クラブ」になるだろう。

だが本作は単純ながらもなかなかどうして脚本がうまい。
まず一般的に「恐い」、「迷惑」という印象のあるフーリガンを、マットという平凡なアメリカ人を通して描くというわかりやすさ。
次に、マットがフーリガンに求めているのは疑似家族であるが、その理由が彼の父親がろくに家庭を顧みない存在であり、さらには優しそうな姉までもが、そのような家庭を見切ってイギリスに渡ったからであると明示されているいうこと。
さらに、フーリガンの暴力を「ここは学べるがここはよくない」みたいに、わりとハッキリと描いていること。そしてその評価は、そのままマットの眼を通しているのでわかりやすいということだ。

けっきょくは部外者であるマット、フーリガンのリーダー的存在であるピートが主人公格だが、彼らはどちらかというとまあまともな人間である。

徹底的にダメなのがボヴァーという、最初からマットにつっかかってくる男である。地域でしか生きられず、(映画内では描かれないが)おそらく仕事の楽しみも社会的地位もなく、しかしけっきょく自分のダメさ加減から地域性の強いコミュニティを裏切ってしまうさまは、私は泣ける。が、ツブシのきく社会的人間像を確立している人間にはただのアホとしか映らないんだろうね。

まあとにかく、何となく悠長なのは日本人だけ、という気がしたことは確か。暴力はよくないが、それが「存在する」ことは認識しないとね。

余談だが映画を見に来ているのはイキった不良っぽい人たちで、ちょっと恐かったです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

・「とっても!ラッキーマン」全16巻 ガモウひろし(1994〜97、集英社)

Tottemo01

アニメDVD-BOX[amazon]

週刊少年ジャンプ連載。
宇宙一ついてない中学生、追手内洋一は、「幸運の星」に守られいつでもラッキーで勝利するスーパーヒーロー・ラッキーマンと合体、地球や宇宙の平和を守るヒーローとなる、というギャグマンガ。

個人的には、ジャンプを読んでいないどころか何が連載しているかもほとんど知らない時期の連載であり、なおかつ絵柄からして「ついでにとんちんかん」みたいなマンガなんだろうと勝手に思い込んでいたため、実はリアルタイムで1ページも読んだことがなかった。

さて、一時期、巷をにぎわしたのが、

「デスノート」の原作者、大場つぐみ=ガモウひろし説

である。
検証としてネームの特徴などがネット上で指摘されていた記憶があるが、まあ勘だけで言うとお話の組み立てを見たら明らかにガモウだよね。
少なくとも、チーム編成だとしたらスタッフにぜったい入っていると思う。
まあ、まったくの想像だけど、ネームで原作書いて作画者に渡しているくらいの深い関わりだと、何となく思いますけどね。

本作を知っている人は「今さら何言ってんだ」と思うかもしれないけど、ラッキーマンって伏線の貼り方が異常なほど綿密なんだよね。偏執的。絵柄があまりにテキトーだから、ストーリーもテキトーだと思い込んでいたらぜんぜんそんなことないんですよ。

まあ、たぶん本作がやっていた時期というのは、「すぐ天下一武道会になる」、「人気があるとダラダラ続く」というジャンプパターンが最も批判的に見られていた時期でもあり、バトルものとしての注目度は、本作は二番手、三番手だったと思うから、その辺気づかれずにスルーされてきた可能性は高い。

もうひとつ、読んで面白いのはラッキーマンの強敵「世直しマン」の考え方。これって、そのまま夜神月の考え方に近いですよ。

もっとも、「世直しと称してディストピアをつくり出そうとする人物」が悪役として登場するのは、これは世代的なものとかもある。一人ひとりがそういう思考ルートをたどって行き着いたわけではないと思うけど、何度も書いてるけどまず70年代の「政治の季節」の挫折がある。
ここで世の中が変わらなかった、という挫折感。それは権力の強大さと、動かなかった大衆への不信感につながっていき、「それならば、愚民を迫害するかコントロールするかして世の中を変えてやろう」という発想につながっていく。

それを、おそらく作者一人の「表と裏、正義と悪」として描いた代表的作品が雁屋哲の「男組」である。その後80年代を通じて「一部のエリートが大勢の愚民を操って理想国家をつくる」(その中には愚民そのものを抹消するという選択肢も含まれる)という悪役が、エンタテインメントに多く出てくるようになる。

「デスノート」が画期的だったのは、そうした思想の持ち主を「主人公」にしたことなんだろうね。どうも、デスノファンは夜神月に感情移入している人が多いみたいだし(私はマジメで人間らしい刑事たちが好きです)。

で、その夜神月の思想そのものが、果たして「デスノート」の本当のテーマだったかどうか、でデスノ評価って分かれると思うんですよ。単なる架空のルールを厳密に設定したゲームのマンガにすぎないのか、作者本人はどう思っているのか?というのが、気になる人も多いのではないかと思う。

「世直しマン」の話に戻ると、
確かに、前述のとおり、「世直しマン」的悪人というのはそれほど珍しくはない。だから世直しマンだけをピックアップしてガモウひろしの思想にせまることはできないんだが、言葉では言い表せないが(言い表せていれば私は評論家になってますよ(笑))、たぶんガモウ自身はそういうことを半ば本気で考えていたのではないかと。

もちろんそれが全部ではなくて、相対する存在として、ラッキーマンをはじめとしたヒーローたちの「いいかげんさ」や「猥雑さ」が生命力、あるいは可能性として描かれるんだけどね。
「デスノ」をガモウ作品としたとき、その「いいかげんさ」や「猥雑さ」の魅力というのは「L」という、月の裏返し、あるいは同族のような存在がクローズアップされたぶん、なりを潜めている。
そのバランスが、「デスノート」という作品に対して「ホントにこんな悪人を勝手に裁くマンガなんて描いていいのかよ」という一部の雰囲気につながっているということは言えると思いますね。

さらにデスノの話になると、そうした「いいかげんさ」、「猥雑さ」を担当しているのって、月の側にいるミサミサなんだよね。この辺が、まあいろいろ考えていると面白いわけです。

ありゃ、またデスノの話になっちゃったな。まだメロとニア編をきちんと読んでないのに……。

また「世直しマン」の話に戻る。
「世直しマン」が敵として登場していたのは、単行本で7巻までで、全巻読んでみて、急に失速するということはなかったけど、個人的に本当に面白かったのって世直しマンと戦った7巻までだと思う。
実は15巻が手に入らなくて1000円出して買ったんだよね……そうしたら、この間「まんだらけ」で売ってましたよ15巻。200円くらいで。

正統な読み方ではないかもしれないけど、とにかく「大場つぐみ=ガモウひろし」って仮定して読むと、より楽しめてしまうことは間違いないんだよね。
ヒロイン「みっちゃん」や洋一のママなどの女性キャラも、どこかミサミサっぽいんですよ。

あ、最後につけくわえると、
私の好きなキャラクターは「スーパースターマン」と「努力マン」と「勝利くん」です。

やっぱり頑張ってるやつといいかげんなやつが好きなんだ。マンガの中では。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「コスプレ・アニマル」(2) 栄羽弥(2005、講談社)

[amazon]

たぶん「デザート」連載。
19歳のリカのだれにも言えない願望、それは高校時代の制服でHすること。
出会い系で知り合った男子高校生・ハジメとの恋愛でソレも実現、二人はどんどん親密になっていくのであった。

ノブレス・オブリージュとして2巻も読んだ(まったく、何様だオレは)。
しかし、どうも作者の人間像がつかめん。いわゆるオタク的・腐女子的な妄想に無限に近づきながらも、どっかが違う。
「ノンケ殺しの魔性のゲイ」なんてのが出てきて、男の子同士のキスシーンも出てくるし、制服に対するこだわりもちょこっと出てくるけど、最終的には「ヒロインにとって、自分のセックスが快感がどうか」に欲望が収斂していくところが違うんだろうな。

制服ネタよりも、普通の三角関係とかの方が自分は面白かったりする。
アラタっていう、ハジメの親友が出てきて、リカに何かとつっかかってきて、本当はリカのことが好きだということがわかるんだけど、この辺はレディースものとしてうまい。
普通、こういう「主人公やその仲間が変わった性癖を持っている」というパターンの場合、「うる星やつら」みたいに、キャラ付けの基本ラインは共通していて属性が違う変わり者が倍々ゲーム的に増えていくのがパターンだけど、
本作の場合は「ノンケ殺しのゲイ」はただ出てきただけで、むしろハジメの幼なじみでリカに対してやけにつっかかる、という性格のアラタは別にヘンタイでも何でもないという妙なことになってる。
いや、むしろそっち方面だけでお話を進められる作者だと思うんだけどね。

少し辛いことを言うと、「旅館の高価な壺を割ってしまったために、とつぜん若女将をやることになる」という話のVol.4が、あまりにも意外性が無かったことは付け加えておく。ただ着物が描きたかっただけかな?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「コスプレ・アニマル」(1) 栄羽弥(2004、講談社)

Kosupure01

[amazon]

たぶん「デザート」連載。
19歳のリカのだれにも言えない願望、それは高校時代の制服でHすることだった。
出会い系で知り合った男子高校生と、女子高生のフリをしてメールのやりとりをするうちにだんだんイイ感じに。トシも性癖も偽って、この恋うまくいくのか……?

コンビニで売っていて、あらすじを読んで衝動買いしてしまったのだが、既刊合わせて100万部近く売れているそうである。
案外面白いしオタクにありがちな妄想色・ヘンタイ色が極度に薄い。……というか、たぶん作者はいわゆるオタク趣味はゼロなんだろうね。
そういう「オタク色無しの変わった性嗜好」を描くというのはかえって珍しいというのが、自分がより面白いと思った理由だろう。

よく「車をバックさせているときの男の人の首筋とか手の筋(筋肉?)が好き」という女性がいるが、この辺はもっと言語化されるべきだろう。俗説として、90年代以前は女性の性欲は男性と違って視覚的ではない(だから女性向けのHマンガは少ない)と言われていて(どこで聞いたかは忘れた)、
実際にはそれとはまったく逆に、その後レディースコミックが爆発的な売れ行きを示すわけで、それからさらに時間が経った現在、普通の女性が普通に男性に対する「視覚的なエロス」を語り始める時代になってきたということなのかもしれない(リカは自分が制服を着るだけでなく、男性が学校のものに限らず制服を着ているのが大好きという設定)。

ただ単行本1巻だけで判断すると、収録されている読みきり「天使のゆびさき悪魔のくちびる」(原作:岡ゆずる)の方が、スタンダードな作品だけあっておっさんにはわかりやすい。
再婚した母親の夫(要するに新しいお父さん)は医者で、その息子もイケメンの医者。女子高生の主人公はこの義理の兄にホレてしまい、気を引こうとするが義兄にはいっさいその気がなく……というあまりにも王道のパターンだがよくできている。
義兄がなぜヒロインに冷たくしていたかの理由もほぼ説明できていて、こうでなくちゃと思わせる。
まだまだ世の中捨てたもんじゃないな、と。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「メッセージ」全2巻 江原啓之、和田育子(2004〜2005、飛鳥新社)

Message

[amazon]

女性自身連載のマンガ。
生まれ持った霊能力でカウンセリングをする男・安達信介の元を訪れる、さまざまな相談とそれに伴う安達の霊視、周囲の者の不思議体験などを描く。

主人公のモデルは、原作者の江原啓之。「オーラの泉の人」と言えばピンと来る人が多いだろう(私は「オーラの泉」はほとんど見たことがないが)。

しかし、これを読んだら考えれば考えるほど、わからない部分がある。
主人公・安達信介のやっていることは、簡単に言えば因果・因縁、霊、あの世、そういったものが「ある」と仮定した上での世界観を提示して、相談者の悩みを解決することである。
意地悪な目線で見ればやっていることはコールド・リーディングに過ぎないのではないかとか、カウンセリングにかかる側は当たった霊視は覚えていてはずれたものはすぐ忘れてしまうんだろうとか、言うことはできる。
言っていることも、まあ前向きに生きなさいとか、親を大切にしなさいとか、自分に正直になりなさいとか、亡くなった娘さんは供養したうえで現実を生きなさいとか、しごく当たり前のことにすぎない。

だが、たとえば壺を買いなさいとか他人を殺しなさいとか、そういうのでないかぎり、「別にみんな幸せにやってるならいいじゃないか」ということになる。
安達のやっていることは、無いことを「有る」と仮構したうえでやるカウンセリングだから、ものすごく厳密に言えば正統な方法ではない。また、もし安達本人が世界観を仮構していると自覚していない場合、いかに小規模でもそれは一種の宗教であるとも言える。

この辺が、今さらながら「う〜ん」と思ってしまうのである(ここでは実在の「江原」氏と、作品内の安達氏は分けて考え、フィクションの中の安達のみについて考えたい)。

私個人は、前世だとか、あの世だとか、霊だとかを引き合いに出して何かを納得する、しかもスピリチュアル・カウンセラーという赤の他人の力を借りて、というのは反対である。
オウム事件を引き合いに出すまでもなく、スピリチュアルな領域というのは現世で、現世的なことどもにとどまる、という保証がまったくないからである。
一般に宗教だとかオカルトだとかを信じる場合、信用できるかどうかはよほど厳密に教義と教団の実践を検証しないかぎり(そして、たいていの場合いちいちそこまでしないだろう)、社会的信用度だとか伝統だとかしか判断材料が無い。

新新宗教がぜんぶ悪いとは言わないが、普通に考えてそれに「賭ける」には既成宗教よりもあまりに信用度が薄い。
それは、霊能力者とかでも同じだろう。

しかしである。そこら辺の人を捕まえて、そんなに世界観や死生観について厳密に考えている人がいるかというと、そんなにはいないだろう。
自分にとってはそこが問題なのである。

まあたいていの人は「健全なオカルト感」とでもいうものを持っていて、幽霊を怖がったり迷信を信じたりすることもあるが、それで何百万円も寄付するとか、そういうところには至らない。
どこかにバランスがある。

だが、このバランスも、どこでどのように保たれるか、という根拠も保証もとくに何もない。
たとえば宝石が欲しいとしても、収入だとかローンが組めるかとか、とにかく手持ちの金から入手可能かどうか逆算できるのだが、宗教の場合、現世と離れたところに価値観を置いたりするから面倒くさい。
まったく「どうすんのよ!?」という感じである。

法事で坊さんの説法なんか聞いても「早く終わらないかなー」と思う人が、スピリチュアルカウンセラーの言うことは聞いたりするのである。
「それって、どういうことよ!?」と思うのだが、自分にはどうすることもできないし、胡散臭いことに変わる何かを提示することもできない。

俗論で「日本人の宗教観は、何でも吸収して独自になじみやすくしてしまう懐の深さ、悪く言えばいいかげんさがある」というのはよく言われることだが、
まああまり原理主義になってもマズいがそもそも「原理」とか「原典」に当たれないというのは、その宗教観の基盤となっている共同体が解体し続けている状態ではいかにも弱い。

だって、仏教における転生とあの世の関係とか、どうなっているとか私も忘れちゃったもんな。田舎に帰ると「ご先祖様は裏山で眠っている」とか言われて。何が正しいかとか仏典見ても書いてないだろうしさあ。
(だからこそ、原典主義を標榜したオウムに知識人たちが「朝生」でシンパシーを示すという一幕があったりした。でも、別におれら原始仏教信じてるわけでもないしねえ。)

何が言いたいかというと、スピリチュアルなんとかでも現実主義でもいいけど、無根拠にバランスが保たれている間は、そのバランスに人は気づきもしない。これは人々が「バランスそのものを意識しない」のだから、ものすごく安定した状態だとも言えるのだが、
いったんバランスが崩れると、「いったい何が崩れているのかわからない」という恐ろしい状態になるのである。
オウム事件はそういう状況の中で起こった、と自分は考えている。

そういう、まあ何というか、「ものの考え方の危機的状況」に、私個人は神秘主義的な考えはあまり寄与するとも思わないのだが、現状の知識人のヘタレっぷりを見ると、なんかもう日本はダメなのかなと悲観的な気分に浸ったりするのである。

と、いつものとおり紹介したマンガとはあまり関係ない話で終了。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

・レイトショー  荒木一郎の魅力

ICHIRO ARAKI after dark 役者  荒木一郎の魅力ラピュタ阿佐ヶ谷
2006年6月24日[土]−8月18日[金] LATE SHOW 連夜9:00〜

もう始まっちゃってるよ!  マズったなあ。「ポセイドン」なんてアホづらして見ている場合じゃなかったよ。
また「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」もやるね。ある種の若者には大必見なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「ダ・ヴィンチの聖杯」原作:能登リアス(2006、宝島社)

Davincinoseihai

[amazon]

コンビニペーパーバック調単行本。内容はマンガです。
作家は瀬芹つくね、史都玲沙、寝猫、竹内ユキ、愛嶋稜、野口千里、水木繁。

男性の考古学者と女性の助手が、聖杯の謎を追っていくという、「ダ・ヴィンチ・コード」の公開に合わせたマンガ。

連続ものにしてはあまりにも絵柄がバラエティに富みすぎている(同一人物の顔がぜんぜん違うと言われた「オーパーツ」のマンガとかなり執筆陣がかぶっている)(→感想)が、見るべきところは何と言ってもあまりに荒唐無稽すぎるラストだろう。

実際のオカルトや疑似科学に根ざした作品ほど、想像力の幅が狭い場合がある。とくにその元ネタを伝える役割がある場合は作家の想像力は極力抑えられるわけだが、この作品のラストはコンビニペーパーバック調単行本の範疇からは大きく逸脱してぶっとんでいると思う。

前に紹介した「世界ふしぎ大発見!!」(→感想)は、原作者がさまざまな注文に応えてアウトプットした結果だと思うが、本作は天然なのか投げやりなのか、それとも会心のアイディアだったのか……。
ダ・ヴィンチの謎よりも、そちらの方に心惹かれる今日この頃である。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

・「魔境にうごめく 謎生物!!」監修:山口敏太郎(2006、リイド社)

Makyo

[amazon]

コンビニペーパーバック調単行本。あ、内容はマンガです。
各章ごとにマンガ家が分担して担当している。
琴川彩、野口千里、速瀬みさき、河村万里、光永健一、風忍&ダイナミックプロ、大本三根子、こきま大、河原達弘、津上柊子。

とにかく、コレも「オーパーツの謎」同様、物語らしい物語がないんですよ。マンガ家の方々はかなり苦労されたのでは。
そんな中、風忍はなんだか「俺たちは人間どもに迫害されてきたッ!!!」と絶叫しそうな迫力あるヒバゴンを描いていました。

あと、いちばんインパクトがあるのが表紙。本書はこのテのコンビニで売られてる本の中では表紙の胡散臭さが群を抜いているので載せました。
なにしろ、正式タイトルらしきものの上の方に「怪奇!驚愕!仰天スクープ!」って書いてあって、惹句が「恐怖!! 吸血怪物チュパカブラ上陸!!」ですよ。チュパカブラがいちばんのウリってアンタ。
(しかも、チュパカブラの記事たいしたことなかった……。)

後ねえ……こういうことあまり言いたくないんですが、文章のコラムがちょっと……もう少しわかりやすく書いてほしかったなと。

値段は300円。なんだか「ショーガクセー・プロイテーション」な雰囲気プンプンの1冊です。
小学生が買うかどうか、わからないですけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「世界ふしぎ大発見!!」原作:コイズミリュウジ(2006、竹書房)

[amazon]

コンビニペーパーバック調単行本。内容はマンガです。
不思議大好きなフリーライター・コイズミ、金と女への興味の方が強い企画屋・アカギ、バンブーコミックスの編集者・ホシノの3人が、毎回国内外のふしぎを調査して回るという1話完結もの。
作家は藤田シーン、富澤みどり、瀬河美紀、寝猫、村松麻由、小川浩司、話民。

「ダ・ヴィンチ・コード」便乗本と言えなくはないですが、冒頭の「映画『ダ・ヴィンチ・コード』で殺人組織として描かれたオプス・デイに直撃取材を刊行ーー!!」という目玉的なインタビューがあり、
そこから前・後編「もうひとつのダ・ヴィンチ・コード」と続き、その後は世界の不思議を探って回るという「MMR」っぽい展開になるというのは、流れとしてはなかなかのものだと思う。

1話1話も、私のような半可通でも漠然と知っている「戸来村のイエス・キリストの伝説」とか、デバンキング系の本を読んでいたらちょっと料理に困るようなものも、うまく誤魔化していると感じる(「誤魔化す」というと語弊があるかもしれないが、原作者の手腕を感じるのである)。

いわば「トンデモ本の世界」が刊行された90年代以降の時代状況をふまえ、オカルト・偽史・疑似科学などに向き合い、編集者の要望で胡散臭さを漂わせつつ、マンガとして仕上げる技術があると感じた。
そんなわけだから、デバンキングを期待すると当然裏切られるが、単に昔からの情報を垂れ流しているわけでもないというなかなか微妙なボールを投げてきているということである。

とくに、最後のエピソード(沖縄の海底遺跡はムー大陸の痕跡かも、みたいな話)が、きちんと単行本全体の最終回になっているところなんかに、物語をつくる側のプライドを感じた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「超古代の遺物 オーパーツの謎」監修:並木伸一郎(2005、竹書房)

[amazon]

コンビニペーパーバック調単行本。あ、内容はマンガです。
オーパーツをいろいろとマンガで解説してある。複数のマンガ家が、各オーパーツについて説明するという形式。
作家はつかさき有、野口千里、史都玲沙、愛嶋稜、水木繁、寝猫、空路、瀬芹つくね、武富健治。

原作があったのか無かったのか……とにかく説明だけで物語がほとんどない……。

確か「トンデモ本大賞」で山本会長が言及されていたと思うが、同じ実在の博士なのにマンガ家によってまったく顔が違うこと、「ノアの箱船伝説」をなぜか武富健治が描いていること以外は、見るべきところは無い……。

オーパーツのことが知りたければ、活字本を買った方がいいかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「麻衣子!」(2) 早坂未紀(1985、東京三世社)

Maiko02

性懲りもなく80年代にひたりたい!というわけで、早坂未紀である。
麻衣子は、ごく普通の女子高生だがある日UFOに遭遇してから超能力を身に着けた。
それであーだこーだあるという1話完結もの。

調べたら全4巻らしい。1巻や2巻、あるいは「麻衣子MIX」なんかは古書店で入手できるかもしれないが、全4巻全部となるとプレミアが付いてしまうかもしれない。
「ヲタ漫画経験値(200人版)」でも知らない人がけっこう多かったので、もろもろ書いてみることにする。

早坂未紀は、80年代に活躍したマンガ家である(早坂未紀の世界が充実したファンページ)。
その後、引退して故郷に帰ったというがその消息はさだかではない。
一度、彼のサイトを見つけたことがあったが、検索しなおしたらもうわからなくなっていた。
いや、単に「マンガ家をやっていたことがあります」みたいなことが書いてあるだけのページだったの。

彼は80年代前半のロリコンブームの一翼を担っていた。「ロリコン白書」って彼の絵が表紙だったって初めて知ったよ。
ロリコンブームは、マンガにおけるSFやニューウェイヴのブームと重なっている。
この頃活躍して、その後パッとしなくなってしまった作家たちに関して「雰囲気だけでお話がつくれなかった」という批判もあるが、ニューウェイヴ自体が雰囲気重視だったから、それは「雨が降ったら天気が悪い」と言っているようなもんであるとも言える。

実際、早坂未紀はキッチリと伏線を貼ったお話をつくるのは苦手だったんじゃないかなあ。「麻衣子!」のシリーズと、あと短編をチョロチョロ読んだだけだとそう感じる。
「原作つければいいじゃん」という声もあるかもしれないが、彼の絵柄って、本当に80年代にしか存在し得なかった、しかも当時はしっかりとエッジを走っていた絵柄なんですよ。それが90年代以降も通用したかというと、むずかしかったかもしれない。

和田慎二、村上もとかのアシスタントだったというが、絵柄的には村上もとかに近いんですよ。
あと雰囲気的にはアニメの名作劇場とか、当時の少女マンガの影響も受けてるでしょう。80年代のロリコンブームでは、いくつか絵柄の系統があって岡崎京子などの少女マンガ系、70年代劇画あがりっぽい人、そしていのまたむつみとか平野俊弘とか、当時のアニメっぽい絵柄に影響を受けた人たちがいて、

早坂未紀はその中で無理矢理カテゴライズすると、劇画寄りなんだけど描線が非常にやわらか、という本当に当時のオタク業界でもっとも輝きを放つタイプの人だったと思う。

たとえば、系統はちょっと違うけどサンデーでやってたあおきてつおなんかは、現在でも活躍してますが、80年代では「美少女を描く人」という印象だった。
今でも女性が主人公の作品が多いけど「美少女マンガ家」ではなくなったわけで、現在、もし早坂未紀がいたらそういう存在になっていたかもしれない、とは思う。
案外、原作付きで料理とか法律うんちくのマンガを描いていたりしてね。

まあたらればの話をしてもしょうがない。どういうわけだか彼はマンガ家をやめてしまったのでまた過去の話をする。

「麻衣子!」に関しては、「超能力を持った美少女が日常と非日常を行き来して、いつも結末は日常に戻ってくる」という基本設定は、本当に80年代のお手本のような作品ですよ。
麻衣子が制服姿がデフォルト(少なくとも私の知る2巻までは)というのも懐かしい。吾妻ひでおの「ななこSOS」とかもドラマ「スケバン刑事」とかもそうだったし。今よりもずっと、制服を神聖視する傾向があった。

今の流行の制服って、そこまでの訴求力ってないですよね。思えばメイドだの何だのの制服が流行るのも、当時の「女子高生の制服」の威力が地に落ちてしまったから、というのはあると思うな。

まあ他の「マンガ奇想天外」とか「SFマンガ競作大全集」とか「レモンピープル」とか、あと徳間書店系のアンダーグラウンドなマンガを見ても似たような感想だとは思うんだが、とにかくなんかすごく感覚だけに訴えるような印象があった。
だからこそコアなSFファンの一部はマンガやアニメから離れたのだろうし、でもそういう「感覚にダイレクトに訴える」みたいなことが、けっきょくメディアを制していくというような流れがあるんじゃないかと思う。

いまだに「ゲーム脳」なんて言われるのもそのあたりが原因なんだろうし、
思えばヒッピームーヴメントなんて80年代にほとんど無かったけど、ドラッグやったことないからわからないけどそういう「陶酔する」ような文化、論理的にどうこうじゃなくて感覚のみに身をゆだねるような文化は、もしかしてしっかりと保持されてきたのかもしれないなあ、とふと思った。

早坂未紀が引退したことによって、80年代前半のロリコンブーム、あるいはアンダーグラウンドなマンガ文化の象徴的な存在に、一種なってしまった部分はある(いや今、その存在そのものを知らない人もいるとは思うけど、彼のリアルタイムの評価をひもとけば多くの人がそう思うんじゃないだろうか)。

ま、そんなこんなでいろんなことはぜんぶ終わってしまったね。それで自分のよく知らない人が、よく知らない場所で、よく知らない祭りを楽しんでるみたいな、そんな現実感覚ですよ私は。

「麻衣子MIX」感想

【参考】
早坂未紀の世界

| | コメント (2) | トラックバック (0)

【イベント】鶴岡法斎のエログロハイセンスVol7

(以下、放浪都市から引用)
場所・ネイキッドロフト
2006年06月29日(OPEN18:30/START19:00)
¥1200 (+1drinkから)
遂に封印解除!「ねぎ姉さん」の作者が外傷性くも膜下出血を乗り越えて、マンガ、蟻、理系、自転車、テレーンなどどうでもいい話を繰り広げる。これは必見!!
【出演】
鶴岡法斎
新田五郎(ふぬけ共和国)
小林銅蟲(「ねぎ姉さん」作者)

会場者用のプレゼントや物販などする予定です。予定! あくまで予定!!
(引用終わり)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

i-knowを使ってみることにする

i-know

コメント欄で教えていただいたi-knowを、実験的に使ってみることにしました。

まあ、ひとつの企業(はてなアンテナ)に依存するのもあまり健全ではないかな、という気持ちもあるしね。

i-knowは無料のようだけど、ケアをきちんとしてくれさえすればなにがしかのお金を払う意志は私にはあるし、
サービスが充実することを祈っております。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

はてながアンテナを上げてくれないのでイライラ2

下のエントリを、アンテナが取得してくれるのではないかと思い上げたのだがやっぱりダメだった。
手動更新チェッカーすら拾ってくれないのは、いくらなんでもひどいと思う。

自分のアンテナにあるこのブログのURLを一度はずして、もう一度入れ直してみたときに気づいたのだがはてなアンテナに当ブログを登録してくれている人が70人もいるのである。

その70人の人が、せっかく更新しても気づいてくれないとなるとそれはたいへんに哀しいことだ。

最近、グーグルの絶対性みたいなことが騒がれているが、
アンテナでいつ更新されているかを取得している自分は、グーグル以前にかなりはてなアンテナに依存していると言える。
しかも、私の知るかぎりこれに変わるサービスは他社にはない(あったらだれか教えてください)。

「グーグルは一生使わねェ」と誓ったとしても、ヤフーもあればgooもある。しかし、はてなアンテナが正確に起動してくれないと私はたいへんに困る。
そのために金も払ってるんだし。

しかも、どうもはてなダイアリーは正常に更新を拾っているが、他社のブログではずいぶん前から拾っていないところがあるのを、今頃気づいた。
おかげで、更新が止まっていると思い込んでいたブログが更新し続けていたことを知った。

当然、はてなにはすでにメールを出しているが、何の返事も来ていない。
ココログにこんなこと書いても仕方ないのは承知の上だが、実にモチベーションの下がる話ではある。

ちなみに、この話には何のオチもない。
人生に必ず、みんながほっこりできるオチがあるとしたら、それは人生なんかじゃない。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

はてなアンテナが上げてくれないのでイライラ

はてなアンテナが上げてくれず、手動更新チェッカーも取得してくれない。
やる気なくなるわ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

・「デトロイト・メタル・シティ」(1)  若杉公徳(2006、白泉社)

Dmc

[amazon]

とにかくミクシィ日記なんかを見ると、周辺の人が「キミキス」やってるか本書を読んでるかということになってまして、ブームには乗り遅れたけど読んでみたよ(たぶん「キミキス」はやりません)。

殺害、レイプ、ファックを連呼するデスメタルバンド「デトロイト・メタル・シティ(略称:DMC)」は、ヘビメタファンからはカリスマ的な人気を誇っている。
その中でもヴォーカル・クラウザーII世は、両親を殺害し、「音楽に出会わなければ猟奇殺人者になっていた」という伝説を持つ男。毎回のライブでは狂乱のパフォーマンスでオーディエンスを興奮状態にもっていく。

しかし、その正体はおしゃれバンドがやりたいフツーよりも気弱な青年・根岸崇一。どういうわけか自分の望まない方向、望まない方向に人気が出て困り果てている。ふだんは素性を隠しておしゃれフォークで路上ライブなんかもやっている(が、客はDMCとは裏腹にまったくいない……)。

要は、そういうギャップを面白さに持っていくギャグマンガ。急に思い出したがもう20年以上前、「ビートたけしのオールナイトニッポン」において「ヘビメタコーナー」というのがあって、「街で見かけたヘビメタ青年がいかにいい人だったか」をハガキで報告するというものだったが、やはり歳月を経てもこういうギャップというのは面白く感じられるものなのだねえ、と感慨深い。

もうひとつ思ったのは、現実に、ガチで恐れられ、なおかつメジャーシーンにも首を突っ込もうとするヘビメタバンドなど、日本には存在してないと思う。おそらくDMCのモデル、あるいは読者が漠然と思い浮かべる現実のバンドは「聖飢魔II」だろう。
その聖飢魔IIでさえ、デビュー当初から「そういうバンドにありそうな言動・行動のパロディ」ということになっていた。

しかし、本作に登場するDMCの受け取られ方(本当に殺人をしたことがある、とファンに思われているなど)は読んでいて実に爽快なことも確かで、
「ウソと思いつつも信じてしまう、信じてしまうけどウソなんじゃないかと思う現代人の感じ」をマンガ全編通してよく表していると思った。
コレは、私はバンドのことはよくわからないが格闘技なんかでも同じで、路上で一般人にブン殴られた総合格闘家のマッハにがっかりしてしまったり、逆に極端にフィクション性の高い(フジテレビが手をひくとか言っていて最近いろいろと騒がれている)「ハッスル」という興行の形態に人々が感じるロマンに近いものがあると思う。

もうひとつ、個人的に面白いのは根岸青年が「おしゃれ」と感じているものの数々。コッチにもリアリティがなければDMCの過激さとのギャップにならないわけだが、要するにかつての90年代渋谷系、ってコトなのね。
DVDでは「アメリ」しか見ないっていうのには笑った。

巷では本書の単行本不足がちょっと騒がれたけど、このマンガを読むときに感じる感覚は、ロードウォーリアーズとかが出てた頃のプロレスとかを見る感じに近いなァ。大勢で見た方が盛り上がる感覚、っていうか。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

・「スクラップ学園 天真爛漫編」吾妻ひでお(2006、秋田書店)

Scrapgakuen

[amazon]

コンビニペーパーバック調単行本。「『失踪日記』で話題の異才が放つ不明朗学園ギャグ!!」と表紙にある。

本書を読んで、あらためて確信した。吾妻ひでおはまぎれもなく天才だと。

今読んでムリヤリカテゴライズすれば、「不条理ギャグ」ということになるのだろうけど、
確か板井れんたろうのアシスタントだったという吾妻ひでおの絵柄やコマ割りは、60年代か70年代、わりとオールドタイプのものなのである。

しかしアイディアはものすごくぶっとんでいて、その丸め方が何とも言えず、いい。
矛盾した言い方になるが、ブン投げたような、あるいはそれでいて手堅くまとめたような、
1話1話がそんな印象なのだ。

また作者本人とはカンケイないことだが、
オタクネタがほとんど風化していないのにも驚かされる(ちなみに連載は80〜83年頃)。
いや、作者とカンケイあるかもしれない。
料理の仕方がうまいのだ。
それと、作者本人が80年代のオタクのコアな位置にいたということ、
同時に「失踪日記」に見られる人間観察が、第一世代のオタクたちにも向けられていたということは言えよう。
収録作「パトスってふんでも死なないのよね」は同人誌即売会ネタだが、今読んでもまったく古さを感じない。

ヒロイン・ミャアちゃんの話。
どんなに不条理なことが起こっても動じない、クールでドライなミャアちゃん。
キャラ造形的には、60年代の学園紛争などの狂騒が終わって70年代を経て、
いろんなことの「処し方」を身に着けた女性、という印象(もちろん、作者のキャラクターに本質的にそういうところがあるにせよ)。

とり・みきの「たまねぎぱるこ」というマンガのヒロインに似ている(まあ、とり・みきが影響を受けたんだろうが)。

偶然にしろ何にしろ、このような「カワイイけどドライでクールなヒロイン像」が、80年代以降はいろんなところを席巻するわけで、その先駆けということは言えると思うし、
ものごとを突き放して見せる80年代を経て、オウム以降のシニカルなキャラクターを経て、造形としては谷川流の「ハルヒ」に至るんじゃないかということを考えるのも、詰め将棋的には面白い題材である。

それにしても、ここ20年ほどでこれほどまでに評価が一定しないマンガ家も珍しい。
現在、二十代後半から三十代前半くらいの世代のマンガ読者にとって、吾妻ひでおは「失踪日記」まで何の思い入れもない存在だっただろう。
しかも、再評価は「失踪日記」というドキュメンタリータッチのマンガがきっかけなのだから、実に不思議と言えば不思議である(私小説的な作品をいくつか描いたことはあったにせよ)。

「失踪日記」は、それ以前の代表作と言われた「不条理日記」と関連してつけられたタイトルなのだろうが、
「不条理日記」の過剰な評価の高さが、逆に吾妻ひでおを忘れ去られた存在にしていたという面はあると思う(もちろん、本人が失踪してしまったことも大きな理由だろうけど)。

「どこから読んでもすぐわかる」、「すぐ読める」という点で言えば、
本作「スクラップ学園」(か、「やけくそ天使」)が、作者の代表作ということでいいのではないかと思う。

とにかくロリコンだとかえすえふだとか、作品そのものの周囲を取り巻いているものが多すぎた。
むろん、それらが「吾妻ひでお」を他のギャグマンガ家と区別する要素であったことも間違いないわけだが、

本書は作者が「失踪日記」という私小説的な作品で実質的な再デビューを果たした今こそ、読まれるべき作品であろう。

……と、ありがちな結びでまとめて見た。

それにしても、たぶん続編は出ないんじゃないかという気もする……。「失踪日記」から読み始めた人の中には、本書の内容がまるで理解できない人もいるだろうから。

| | コメント (4) | トラックバック (3)

【映画】喜劇 特出しヒモ天国

1975年、東映
監督:森崎東、脚本:山本英明、松本功
自動車会社の営業マンだった山城新伍は、出入りしているストリップ劇場のオーナーから金が取り立てられず、さらに警察の手入れに巻き込まれて会社をクビに。
以前よりひいきにしていたストリッパー(池玲子)のヒモとして生きていくことにする。
ストリッパーとその周辺で生きる人々を描いた人情喜劇。

監督は山田洋次がらみの人らしいが、「底辺に生きる人々のしたたかな生き様」などをこれでもかと見せられたらどうしようかと思ったんだけども、「いかにもこの頃の東映」という仕上がりになっていて大満足だった。
とくにオープニングの勢いのある曲と、ストリップ小屋の近くにあるらしいお寺での坊さん(殿山泰司)の説法が重なって流されるシーンは、偶然なのかもしれないが本当に曲としてものすごくカッコいいのであった。

この頃の山城新伍の胡散臭さは最高。また、この頃の「底辺の人々の中でも、さらにワリを食っている」存在を演じる川谷拓三も最高である。昔はこういうキャラにも目配りはあった。今は本当にただ笑いものにしている部分があると思う。しかも人間は平等だと前提として、だ。

ついやり場のない怒りで力がこもってしまった。……まあそんなことはともかく、池玲子はキレイだなァ。実は「仁義の墓場」などの、任侠路線でもかなり彼女を見ているはずなのだがまったく印象がない。
脱いでナンボの人というのはやはり存在する。「脱いでも普通の映画に出られる」といった状況であれば、池玲子は消えないで済んだかもしれないと思う。

もちろん、「脱いで普通の映画に出ている人」は昔からいましたよ。森下愛子とか、関根恵子とか。最近だと「つぐみ」とかもそうかも。
でもポルノ出身の人はいったんどうしてもそれを断ち切らないとマズかったということはあったと思うし、それがうまくいかなかった人もまた、多かった。

ポルノ出身者が「脱ぐ/脱がない」の二者択一しか無かった、70年代終わりから80年代にかけての映画界の実情を恨むしかないんだろうな。
いやAVのことを考えると、現在もそう変わらんか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】キャバレー日記

1982年、にっかつ
監督:根岸吉太郎、脚本:荒井晴彦
軍隊式で売り上げ向上に邁進するキャバレーの人間模様を描く。
主演は伊藤克信、あと竹井みどりとか。

にっかつロマンポルノって、本当に見たことがない。見たいと思っていた頃は自分は中高生で、まあ勇気を出して見に行ったやつもいるだろうけど自分はそんなことはできなかったし、
ビデオが出始めた頃は、ビデオでにっかつの映画を見るというよりむしろAVの時代になっていたしね。

「笑えるポルノ」の特集で見に行ったけど、東映とテイストがぜんぜん違っていてドライな笑いですよね。この話って、主演が伊藤克信じゃなかったらかなり悲惨ですよ。伊藤がまじめにやればやるほどおかしい、でもドライ、そんな感じですよね。

でまあ、実に今さらかもしれないけど、このドライさはエロマンガ、エロ劇画が本質的に持つドライさと通底している。両者がお互いを意識していても何ら不思議はない状況だったし、何というか人間の哀しみを通り越してドライになっていったという感触がある。

しかも、本作に限って言えばそれが「おしゃれ」に傾くと私などは「ふざけんなコノヤロウ」と思ってしまうが、そこはあくまで淡々と描いているところがいい。

女の子の主役格の竹井みどり、この時期どこかでさんざん見た記憶があるがどこかは思い出せない。
まあ、私の青春時代なんて掘り返してもロクなものは出てこない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【映画】大奥浮世風呂

1977年、東映
監督:関本郁夫、脚本:田中陽造

悪さのしすぎで坊主に身をやつしている志賀勝。彼は、中世のアナーキー性をそのまま映像化したようなシュールな悪所(としかいいようがない)にいつもたむろしている(いや中世に大奥は無かったと思うけど……)。
そんな仲間たちの中で娼婦をしていた娘が、侍の養女になり、そこから大奥へという成り上がり道を歩むことになった。
この娘に、大奥でのライバルの女を流産させよと命令された志賀は、便所の中に隠れて蛇を出すことにより、ライバルの女を驚かせて子供をおろすことに成功する。

大奥では男の子を産めば権力は増大し、子供を産めなければ軽んじられる。成功への階段をのぼることを約束され、なおかつそれを事故による流産によって剥奪された女は、発狂して志賀たちがたむろしている場所までやってくる。

志賀は、便所の中から眺めていた時点でこの女を愛してしまっていた。悪行のかぎりをつくしてきた志賀は、狂女となったこの娘を家で預かることにするが……。

まあ、なんてことない話と言えば話だが、どこかの解説にあったように、関川郁夫の描く世界では「聖と賤」が対照的に描き出され、「聖の中の賤」、「賤の中の聖」が描き出されている。

ラストは、まあ予想どおりと言えば予想どおりだが、このようなルサンチマンの表出が無くなってから、すべてのエンターテインメントは本当に面白くなくなった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »