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原作・監督・脚本:押井守
戦後、ヤミ市の中から登場した立ち喰いのゴト師「立喰師」の中から、時代を代表する伝説的人物たちを時系列に追った、論文調(?)実写アニメーション(?)。
結論から言うと、写真をCG技術でアニメーション風に仕立てた効果もあまり出ているとは思えないし、お話も追っていくうちに疲れてくる、まあお世辞にも成功しているとは言いがたい作品。
なのだけれども、自分はなぜか愛せてしまった。
以下は自分語り。
押井守が注目されだしたのは、よっぽど濃いアニメファンを除いては「うる星やつら」からだと思う。
70年代末の「ヤマト」以来のアニメブームが観客の受容史としてそれまでの映画と違っていたのは、まあ異議を唱える人もいるだろうけど「作家性」、「作品性」という当然重視されるべき観点とは別に、「商品としての完成度」、「つくり手の作家性ではなく職人性」みたいなものに着目する点にあったと思う。
より正確に言うなら、作家性に着目しても商業的な部分を考えずに純粋な「創作物」としては観られない部分があった。巨大ロボットものは、「オモチャを売らなければならないから」巨大ロボットものなのであり、原作ものアニメも「なぜその原作なのか」と問われれば、アニメ監督の方は「つくれと言われたから」としか言いようがない部分もあったに違いない。
そんな中、押井守ほど「作家性」と「職人性」の乖離を提示させる人はアニメ界にはいなかった気がする。
言い方を変えると、資質として職人的な部分と作家的な部分を両方持っており、なおかつその双方で評価されてしまう側面を持っているということだ。
80年代で言えば、巨大ロボットモノ一本で押し通す富野監督や、せいぜい「ナウシカ」から「ラピュタ」あたりまでで、現在に比べると作家性を小出しにしていた宮崎駿監督と比べると、押井守は何となく「イキってる」感じが個人的にはしたのである。
また、「うる星」の「メガネ」の長ゼリフによく登場していたように記憶する「平凡な日常に騒乱を巻き起こせ」的なアジリ、あれは今考えるといかにも国内的には無風状態だった80年代に合致した物言いなのだけれど、
当時の私にとっては「平凡、結構じゃねェか」という意識が強かったというのもある。
なにしろ、当時の私が激しく感動したのは「メガゾーン23」というアニメであり、その作品内で「80年代の日本がもっとも平和な時代と場所であったことが未来人に認識される」という、そしてその「最も平和な時代と場所」が戦争によって蹂躙されていくという設定だったのだから。
その後の、「パトレイバー」の頃はアニメからもっとも離れていた時期だったこともあり、押井監督の作品を熱心に見ていたわけではないのだけれど、
(それとアニメ作品に比べて実写寄りの作品が評判が一定しないということも聞いていたのだけれど、)
本作「立喰師列伝」は、なぜか愛することができた。
その理由としては、やっぱりこの人の「イキってる感じ」は、ただそれだけでは終わらない、本物なんだと認識できたことがひとつ。
もうひとつは、たぶん吉本隆明とかを引用している以上、押井守は全共闘世代にシンパシーを感じていてあの頃の騒乱状況に魅力を感じている人だと思うのだけれど、そういう感じをなぜか許せるようになったというのもひとつ、ある。
80年代にはその辺は微妙だった。オタク的なものを含んだニュー・ウェーヴ路線(もっと大ざっぱに言うとサブカル路線)というのは、「もう今までの政治の季節の気分をそのまま踏襲している時期ではない」という雰囲気が横溢していたからだ。
吾妻ひでおなんかは、その典型だったのである。吾妻ひでおのロリコン感は後世のものと違っていて、「むずかしいこともいいけど、こーいうのもいいじゃない」というかろみのようなものがあり、ドライなギャグは「三無主義」とか言われていた若者からも支持されていた。
まあ当時の若者は、吾妻ひでお的態度を時代に対するクールさと受け取っていたのだけど、それが21世紀になって、自分自身の凄惨な人生に対してもクールさを保ってエンターテインメントとして提示するという、静かなる迫力を持った「失踪日記」になるとは、20年前の読者はたぶん予想していなかった。
閑話休題。
押井守のアジリに疑問を感じていた自分も、さすがに90年代半ば以降(バブルが崩壊し、オウム事件、阪神大震災がこの頃に起こっていて、それ以降確実に時代の何かが変わった)の時代状況にはいいかげんイライラしてきており、本作における押井監督の変わらぬアジリっぷりが爽快だったのかもしれない。
本作のナレーションの「文体」は、かつての「イキった評論」の文体のパロディだが、今どきこういう文体で文章を書く人間もそうはいないだろう(まあいるとは思うが、もはや伝統芸能みたいな形式的なものになっていると思う)。
そのパロディの対象となっている文章自体がいささか過去のものになっているぶん、せつないし愛おしいというのはある。
胡散臭い存在(立喰師)が時代を映す鏡であり、
戦後すぐには「何もないところ」に知性で幻想と立ち上がらせる存在であり、
学生運動はなやかなりし頃は、それと関係ありやなしやの謎の存在であり、
運動終結後は「負けること」によって自己表現を完結させるという矛盾した存在であり……
というパロディとして語られる戦後歴史観は、80年代終わりまでは非常に「わかりやすい」物語であった。
吉本隆明の引用があったことはすでに書いたが、平岡正明とか荒俣宏とかもものすごく大ざっぱに言ってそういう観点であり、
それまで省みられなかったマンガ、プログラムピクチャー、ミステリ、ポルノ小説、幻想文学などが同時代を撃っていた、という視点はそのまま「立喰師」の存在に重なってくる、というのはまあこの映画を見た人ならすぐわかるだろう。
そのような懐かしい歴史観だったのだが、確か映画では昭和50年代で立喰い師の歴史は止まっているはずである。しかし、このような流れだとここで止まっているのも同時に理解できるのだ。
ま、なんというか、押井守の問題意識は、95年あたりを境にして自分にも共感できるものになってしまったということなんだろうな。
ちなみに、画像は原作小説の表紙。
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