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2006年4月

ホリエモンと福原愛

仕事場には自分以外に三人。
元ヤンの主婦のオバサン、
いつも一人でクスクス笑っているオタクなやつ、
「ランボー」を意識しているのか、頭にバンダナ巻いてTシャツの袖はひきちぎってあって、筋肉ムキムキであごがしゃくれている青年。

作業は、仮面ライダーのにせもののバックル部分にシールを貼ること。

作業場はバラックみたいなところ。
版権とかがうるさい今日この頃、こんなバッタモンつくっていいのかと思うが、それは謎。

作業は無言で行われる。
いちおうバイトのチーフは「ランボー」を意識している青年。一般旅行者も行かないような国に何度も行っているというからバイタリティはある。
しかしこの人の将来が心配だ。

元ヤンのオバサンもけっこう気さく。ただケータイに何度も子供から電話がかかってくるのが困りもの。
旦那はいるのかいないのかわからないが、子供が小さいのでランボー青年も携帯電話に出ることを止められないらしい。

やる気のないのはオタク青年。
いつも一人でくすくす笑っていて、昼休みに本を読んでいたから「どんな本読んでるの?」と聞いたら、
「どうせ言ってもわからないですよ」と言いながら見せてくれたタイトルが、司馬遼太郎の、
「燃えよ剣」
それ、ベストセラー作品じゃないの?
こういう「マニアぶっているけど薄い」オタク青年というのがいちばん始末が悪い。プライドばかり高くて、かといって賢明にコミニュケーションをとろうとしても得るものは少ない。

午前中の作業が終わり、昼休み。
作業場のバラックがあるところの、道路を挟んだところに昔ながらのパンとか牛乳とか雑誌とかが売っている店があって、そこでサンドイッチなどを買って昼食。
思い思いに、そこら辺に座って食べる。
元ヤンのオバサンは、家が近くで子供にご飯を食べさせに出ていくときもある。

ランボー青年は、「時間がもったいない」という風に「ウイダーインゼリー」みたいのを飲んだ後、すぐ読書に入るのが日課。
オタク青年みたいに娯楽のための読書ではないらしい。
何を読んでいるのか盗み見ると、
「第三世界の貧困がうんぬん」といった感じの本だった。

オタク青年はゲームをやっている。ニンテンドーなんとか、ってやつ。
私はバラックの周囲を散歩することに。
周囲には観て楽しいようなものは、何もない。
他に似たようなバラックが点在している。

いつか思いきって覗いたら、そこではウルトラマンのバッタもんのカラータイマーの部分に赤色を入れる作業場だった。

もしかして、どこもかしこもにせものをつくっているのか?
と思うが、頭がどんよりしているのですぐに忘れた。

駅前には個人経営のレンタルビデオ屋が一件、焼き肉屋一件、赤提灯が一件。
あとボロボロの建物で、いちおうキャバクラっぽいけど中で何をやっているのかわからない店が一件。

昼休みが終わったので、また作業に戻る。

夕方まで作業を続けて、午後五時半で終わる。

みんな、思い思いに帰っていく。

駅前にはファーストフードしかないが、一人で焼き肉を食いたいとも思えないので赤提灯に入って、いきなり焼き鳥と焼きおにぎりを頼んだらブルドッグ顔のおやじから少しイヤな顔をされた。
ビールは飲まなかった。
AVをレンタルして帰る。

家に帰ってテレビをつけたら、ホリエモンが出所していた。
ホリエモン、三ヶ月で二百冊も本を読んだという。
あまりの読書ペースの速さに、絶望的な気分になった。

いちばん感動したのは山崎豊子「大地の子」。
いつもながらの、正論過ぎて面白味のないホリエモンセレクト。

借りてきたAVをしばらく観て、何かの拍子でリモコンを押してしまい、そのときに放送されている番組がパッと映った。

卓球少女・愛が卓球をやりながら奇声をあげていた。
なんか、子供時代から少し成長して、何となくプクプクした、より気持ち悪い存在になっていた。

ヒヨコが成長してとさかだけが出ている、あの時期の所在なさを思い出させる。

布団に入って、死を考えた。

そうしたら、昼間シールを貼り続けたにせものの仮面ライダーが夢の中に出てきて、
「死んで花見が咲くモノか!!」
と、およそライダーらしくない古い言い回しで励ましてくれた。

それにしても、本当にあのバッタもんはどこに出荷されていくのだろう。
今日び、ファミレスでも正規の商品を売っているというのに。

もしかして、本当にああいうライダーがいるのだろうか?
そんなことを考えながら、眠りは深くなっていった。

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【映画】女番長 玉突き遊び

THE 女番長(スケバン)全開ガールズパワーラピュタ阿佐ヶ谷

1974年、東映京都
監督:関本郁夫、脚本:松本功
出演:叶優子、藤山律子、成瀬正孝、衣麻遼子、菅貫太郎、白石襄、安部徹、広瀬義宣、大泉滉

敵対するスケバンとのタイマン勝負で少年院に入った今日子(叶優子)は、2年の歳月を経て出所。かつての仲間とグループを再結成。暴力団と十億円の密輸ダイヤをめぐり争奪戦を展開する。

……っつーことで、楽しい時間は終わり。「女番長」シリーズも本作で終わる。本作では主役級の杉本美樹、池玲子双方が降りてしまっていて、正直画面に華がないのは否めない。
また、何本も見続けてきたがシリーズの新鮮さが薄れてきていることも事実で、本作自体は北斗の拳やドラゴンボールの終盤、ウルトラシリーズにおける「ウルトラマンレオ」などと同じように、定型パターンの生命力が失われる寂寞たる印象を持つ。

ただし、プログラムピクチャーの脚本としては非常によくできている。たとえば「十億円のダイヤ」は、本来ライバルスケバンの方の因縁で出てきたものなのだが、それに対する今日子たちの関わり合いの過程なんかは、マンガ家とかシナリオライター志望の人なんかは観て勉強になるかもしれないですよ。まあそもそもよくできたプログラムピクチャーってそういうもんだけどね。

「スケバンには、明日もあらへん。昨日もあらへん。あるのは今日だけや。」は、確かに名言ではある。

製作背景などについてはこのページがまとまっています。

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【書籍】・「UFOとポストモダン」木原善彦(2006、平凡社新書)

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UFOや宇宙人をめぐる言説を時代ごとに区切って分け、空飛ぶ円盤→UFO、コンタクティー→アブダクティー→宇宙人陰謀論と変化していったのか、そしてなぜそれらがある時期から「古い」ものとなってしまったのかを論じた本。

90年代半ばくらいまでのUFOをめぐる諸問題(それがどのように語られてきたか、という意味での問題)を論じた本はあったが、本書はその先、ポストUFO神話を考える点が多少画期的かもしれない。

で、そのポストUFO神話については、

「エイリアンよりももっと複雑かつ根源的に私たちの存在そのものにかかわってくる他者という感覚、いわばシステムに入り込んだアンチシステム、私たちの秩序正しい生活に入り込んだ不快で危険なノイズのような存在という感覚。」(P191)

というふうに語られていて、具体的にはマイナスイオン、環境ホルモン、Y2K問題、電磁波という現実の問題になっているのだということなんだけれども、

まあ論文じゃないんだから多少飛ばしたところがないと面白くないとも言えるが、私個人の感想としては少し飛ばしすぎなんじゃないかという気がする。
これには理由があって、現状分析や未来予測は人文科学的根拠を提示されればされるほど胡散臭くなると私が思っているから。

本書の主張が、「もしかしたらこうかもしれないね」程度の、床屋政談レベルのものであるなら「うまいこと言うなあ」と思ったかもしれないが、「フーコー」とか「ボードリヤール」という名前が出てくると、かえって眉にツバを付けたくなってしまうのである。

そもそもが、「UFOをめぐる言説」の変遷と、その終焉が「環境ホルモン」などの現実に移行していくという根拠が、自分にはまるでないように思える。
ましてや、2000年問題の「ミレニアム・バグ」をバグ=虫としてエイリアンと地続きに論じるなど、文章上のアソビとしてもやりすぎのような気がする。

また、UFO神話の終焉が「人類は月に行っていない論」だとしたり、マイナスイオン、環境ホルモン、Y2K問題、電磁波などの現実の出来事に混じって「スカイフィッシュ」を混ぜたりしているのは、これはもう恣意的なものとしか思えない。
前者はアポロ計画の頃からある古いタイプの都市伝説らしいし、「スカイフィッシュ」はビデオ上に移る幻なのだから「環境ホルモン」とは違うだろう。

また「エイリアンはなぜ、金髪の白人からグレイ、節足動物へ退化するのか」という本書の目玉的な部分だが、個人的にはグレイまでを「退化」とするかどうかという問題があると思うし、それ以降を「節足動物」だとする考えには納得できない。
本書にあるように、映画「エイリアン」、「インディペンデンス・ディ」、「MIB」などの映画に出てくるモンスターっぽい宇宙人が、実際のUFO神話に影響を与えた形跡はない。
「節足動物」を「ミレニアム・バグ」や「スカイフィッシュ」などとするのも、牽強付会ってものだろう。

「金髪の白人」→「グレイ」への変化は、「人間そっくりの宇宙人なんて非現実的なのではないか」という、一般人の意識に対する変化で、それを「退化」と言いきれるかどうかは疑問である。
コレはたとえば「ネッシー伝説」が信じられなくなり、「スカイフィッシュ」が信じられるようになったからといって、それを「退化」というかどうかということと同じだろう。

ただし、「すべてがつながっているかもしれない」という陰謀論が、「すべてはつながっていないかもしれない」という統合失調症的な不安に移行している(P181)、というのは、その指摘だけ取ってみればありうることかなあ、と思う。
それと冒頭に引用した「いわばシステムに入り込んだアンチシステム、私たちの秩序正しい生活に入り込んだ不快で危険なノイズのような存在という感覚。」というのが新たな恐怖になりうる、という感覚は理解できる。

しかしそれがたやすく虚構→現実と虚構の区別が付かなくなる状態、に移行するとは個人的に考えにくい。
それらもやはり、虚構世界を考察することでより見えてくる問題だという気がする。
たとえばJホラー。たとえば人々の会話にのぼる無差別犯罪など。

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・「シャイニング娘。」(5)Five Sense of love(2006、ヒット出版社)

Shaining05

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成年コミック。「COMIC阿ロ云(あうん)」連載。人気アイドル・×浦(ばつうら)亜弥は、シャイニング娘。メンバーや親友の関節本(ふしもと)ミキを悪魔・不死本ミキに人質にとられ、エロいこと連続の沖縄ファンツアーに強制参加。
一方、シャイ娘。の面々も、冠番組「ハローシャイニング。」収録で沖縄に登場。
ゲームと称する「ファンによる公開集団レイプツアー」が行われるが、魔法の力などで抵抗できずにエロエロエロエロ。

まあレイプものというより、このシリーズは基本的に女の子たちがだんだんその気になっていくのでニュアンス的には乱交もの、って感じですかね。
実在のナントカ娘。がモデルになっているのは周知のことですが、連載時のタイムラグと合わせて読むと感慨もありますな。吉業がシェイプアップ前の体型だったり、こんこんや密重は今はもうちょっとオトナになってるなあ、と思ったり。
でもそれが、またマンガにインプットされて再アウトプットが繰り返されていくからね。それが面白い。

それと、こんこんと珠橋が(それぞれのモデルに)あまりに似ているので感心してしまうんだが、コレはもともとがアニメっぽい顔をしているからでしょうね。二人とも。

この巻で終わりかと思ったら、次にまだ続く。

……マンガの他ジャンルとの大きな違いは、連載、続きものが多いということ。

読みきりという形態にこだわっている作家もいるし、実際すばらしい作品もあるんだけど、連載という形態において、曖昧な表現で申し訳ないが無制限に時間軸・空間軸からはみ出していくような感覚に対する快感が、他ジャンルとは違っているところだと思う。この辺考えると面白い気もしますがね。

だが、逆に「続くから」という理由でおそろしくつまんないマンガもある。結論を無限に先送りして、永遠に「面白さ」を時間軸の先にあずけて「面白いような気にさせる」マンガとか。

でも、本作のこの巻はお話の進展もほとんどないし、ほぼ全ページにわたって乱交の連続で結末もない。次回に続く。そして、それだからこそのマンガ特有のパワーを持っていると思うんですよね。

エロマンガだということがあるにしても、金太郎飴みたいにどこからぶったぎっても意味が通じ、楽しめるという連載マンガのプリミティヴなパワーを感じる。
同じことは、えんえんと戦い続ける格闘マンガなどにもいえることだけど。

茶魅川が「キャオラッ」って叫んだところでは、爆笑してしまいました。

4巻の感想


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【映画】女番長 タイマン勝負

THE 女番長(スケバン)全開ガールズパワーラピュタ阿佐ヶ谷

1974年、東映京都
監督:関本郁夫/脚本:鴨井達比古、志村正浩
音楽:広瀬健次郎
出演:池玲子、衣麻遼子、藤山律子、渡瀬恒彦

大島興業のボス(安部徹)に捨てられた姉が自殺してしまった桂子(池玲子)は、復讐しようとするが殺人未遂でとどまり年少送り。
それまでは普通の女の子だった桂子は、弱肉強食の年少内でイジメを受けるところからケンカを繰り返してのし上がり、出所する頃には立派な番長の風格を備えていた……。

この頃の東映好きにはたまらないかも。やっぱりね、日本映画史全体から見れば取るに足りない存在かもしれないけど、今見ると捨てがたい魅力がある。
なぜか桂子の服が、スーパーヒロインでもないのにスーパーヒロインっぽいところは志穂美の悦ちゃんの「13階段のマキ」を彷彿とさせる。

74年というと学生運動も相当下火になっていたと思う。リアルタイムで知るわけではないが、この頃から数年間でエンタテインメント界でも激しい変化が起こったように思われる。
数年して宇宙戦艦ヤマト、ガンダム、スター・ウォーズなど後に何十年にもわたってオタクのスタイルを決定づける作品が公開されるのである。

……ということは逆に言えば、70年代の低予算アクション映画などは80年代に入ってからのアンダーグラウンドでの再評価という点から言っても、打ち捨てられていたであろうということだ。
実際、この頃の東映のアクションものはあまりにもスタイルを確立しすぎていたために、ある時期まで異様な「古さ」を感じさせていたことを思い出すのであった。

それが、時代の方が変わって今見るとすごく新鮮なんだけどね。

とにかく池玲子がエロエロすぎる映画。倖田來未の一兆倍エロい。イマドキだったら簡単にS/Mに分けてS側に振り分けられるであろう池玲子が、ライバルに同情したりコワモテの金バッジやくざ(渡瀬恒彦)にフッと恋しちゃったりする描写がグッと来るのだ。

何? 「ツンデレ」だと!?
そんなアナタは校庭100億万周!!!!!!!!!!!!!!

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・「ガキ警察」最終回(週刊少年チャンピオン16号、2006)、あとちょこっとアクメツの話

Gaki16_1

藤井良樹、旭凛太郎の「ガキ警察」がこの号で最終回を迎えた。1ヵ月くらい前に。
自分は「ふぬけ共和国」における第1巻のレビューにおいて、

橘雷とは、虚構世界では本当は「失われた10年にひとつの逸材」ではなく、70年代中盤からほとんど姿を消した「失われた30年」の後に現れたタレサンイズムの正統後継者なのだ。

……と書いた。
「ガキ警察」は、私個人は「70年代的な価値観で、現代の事件を斬る」というのがテーマ(裏テーマ?)ではないかとずっと思っていた。
当然70年代といっても重層的である。
ひとつには自分を抑圧してくる強大な権力に対抗して敗れ、死んでいく破滅型ヒーローの系譜があり、
もう一方では、滅私的ではあるがときにはストーリーの狂言回しになる場合もある「ダーティー・ハリー」的刑事の系譜がある。

主人公・橘雷は、後者っぽいふるまいをしながら最終回近くになって「刑事」のワクにおさまりきれなくなり、前者的な展開になっていく。
70年代だったら、雷は悪人とともに死んで終わりだったかもしれない。

ここで、今日的な問題が出てくるのだが、現状のアクションでは「特攻的に死ぬ」ということはなかなかむずかしいのである。

もちろん、それはオウムがあり、911があったからである。
70年代に、特攻的に死ぬヒーローが多かったのは、日本の場合「お国のために死ぬ」ことが是とされた時代があり、それに対して「お国のため以外に、人は死ねるか?」という命題が戦後日本人につきつけられていたからだ。
(「愛と誠」における「君のためなら死ねる!」もその系譜に位置する。)

しかし、「死ぬ死ぬって言ってもさあ、死ぬより生きた方がいいんじゃないの?」的な80年代、「おめおめと生きる」ことに価値を見いだすといった雰囲気を経て、90年代半ばに本当に「お国のため以外の理由で特攻する」人間が出てきてしまった。
90年代半ば過ぎには、すでに「お国のため以外の理由で特攻する」ことは世界的に見ると戦争の新しい形態であり、国内的には(オウム的には)時代の病理とでもいうものになっていた。

コレでは、主人公は死にたくても死ねないのである。
実際、「ガキ警察」でも「自殺サークル」を取り上げた回もあり、作者はその辺のことには意識的であっただろう。

また、橘雷のキャラクターも、絶望している犯罪者や被害者たちに勇気を与えて回るような役どころだった。
だから、最終回でもやっぱり生きた。
「ガキ警察」を評するとき、やたらと70年代と比較した私ではあったが、最後まで「ガキ警察」というポジションにとどまったラストは、現代的だと言うことができる(「ダーティ・ハリー」の1作目なんて、最後に確か警察手帳を放り投げて終わりだからね)。

「俺もおまえも このカッコ悪ぃ世の中で 死ぬまでドロドロ生きるしかねえんだ!!」

っていうセリフ、はっきり言ってダサい、ストレートすぎてカッコ悪いんだけど、まあそれが本作全体のテーマと言えばテーマだろう。
本作の主人公は、「何か」と戦って死ぬだけではもうダメだということをわかっている。
だからこういう結末になったことは、とてもよく理解できた。

単なるアナクロニズムではなく、私はこのラストは立派に現代的な解答だと思うがどうなんだろうか。

さて、その次の週、17号で連載が終わったのが田畑由秋、余湖裕輝の「アクメツ」である。
もともと明らかに過剰気味な制裁を、現実の社会問題の元凶と思われる人々に下してきた「アクメツ」。
こちらは「ガキ警察」とは対照的に、最後は死を迎える(まあ、ネタバレにはなってないでしょう。ここまで書いても)。
70年代的な特攻的死は、抑圧が強大すぎる絶望から来るものだった。「アクメツ」の場合は、ヒーロー側にも敵に匹敵するくらい強大な力を与えたらどうなるか、という思考実験の一種だったようにも思える。

で、どうなるかというと、主人公はやっぱり死ぬのである。
「アクメツ」に関しては、ちょっとまとめて考えてみたいと思っているが、とりあえず連載が終了した直後に考えたのは、「大義」のもとに天誅を行い、しかもそれがかなり遂行率の高い計画である場合、それが許されるかどうかという命題があったということである。

逆に言えば、「天誅」の遂行率が低い場合は主人公の「賭け」の要素によってその罪はある程度斟酌されるが、そうでない場合はされない、とでもいうことだろうか。
なんにしろ、70年代以降のヒーローの系譜としては死ねないが、「アクメツ」は「死」という結末以外考えられなかったということ、それはどういうことかということである。

バラしてしまうと、

「ガキ警察」ではテロを否定したところから出発し、
「アクメツ」はテロを肯定するかのような展開で引っ張っていって、最終的には責任を取って死んだということである。

このあたりには、21世紀に入ってからのヒーローものが何を描けばよいのか、重要な示唆が含まれていると思う。

おわり。

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「本」幻想

自費出版 ある専門会社の倒産

ときどきテレビでも紹介されている「自費出版専門」の会社。
同人誌製作をかじったことのある人なら、(良心的なところもあるだろうけど)ちょっと法外な値段で本をつくってるなあ、と思うだろう。
それでもギブアンドテイクで関係が保っていればいいが、「倒産」などということになると「本」に対する一定層の幻想、そのこだわりが生のかたちで露呈することになる。

最初は私、単なる無知の問題だと思っていたような気がする。
同人誌をつくっている人の中で、1冊に何百万もかけている人など聞いたことがない。
「書店に自分の本が並ぶ」ということに魅力を感じている、逆に言えば「つくるのはいいが、どう売ったらいいかわからない」ということが、このテのビジネスが流行る大きな理由だと思ったからだ。

しかし、だんだん時間が経つに連れて、被害にあった人たちがどんどんかわいそうに思えてきて、
「コミケ」と簡単に比較していいものかとも思えてきた(コミケと比較すると、とにかく自費出版ビジネスの本は高い場合が多いのである。だからみんな比較したくなるし)。

というのは、それでは「コミケ」を通した流通形態が果たして「自費出版ビジネス」とまったく好対照な、実質性を持っているのかという疑問が、私の中に浮上してきたということでもある。

コミケがここまで拡大した大きな理由として、「マンガ」を印刷して出版して販売する、ということがある。

そんな「もしも」はそもそも「もしも」として成り立たないが、もしもアマチュアの「小説」とか「論文」の大ブームが起こり、それを売る同人誌即売会が出来たとしても、さすがにコミケのように拡大はしないだろう。
(「文学フリマ」だって、コミケ並みに拡大はしないだろう。)

インターネットが流行り始めた頃、ネットコミックの可能性がささやかれた。「流通」の良さということで言えば、ネットの方が実際に本を持ち出して頒布するのとは比較にならない。
しかし、現在、ネットコミックという1ジャンルは存在してはいるが、それは「コミケ」の存在価値を無くす方向にはまったく行っていない。

やはり20ページ以上のマンガをクリックしながら読むのは面倒くさいとか、物質として所持していたいとか、いろいろな理由がある。「文学フリマ」も一定の成果をおさめているようだが、「小説」も、ネット上ではある程度の分量になると読みにくいということがある。
あ、電子書籍に関しては売り上げ等、どうなのか調べてないけどね。

で、確かに「コミケ」という流通形態は「作品を読んでもらう」という実際的なコトに関して、最適だからこそここまで維持されてきているのだろうけど、そこはやっぱり「本」だろうやっぱり、とも思う。「本」としての幻想はあるだろう、と。

たとえば私がやっているような評論系の同人誌の場合、「読みやすさ」ということで言えばネットとほとんど変わりがない。しかも、アクセス数、書かれたモノがどれくらい人の目に止まるかを考えたらネットの方が断然上である。
これはもう比較にならないくらい上。

というより、公共の利益(?)を考えたら、そんなに儲けの出ないマイナージャンルの研究・評論本なんかの場合、データなどはまるまるネットにのっけてしまった方がいい、と言うこともできる。

つまり「情報を何らかの流通に乗せる」ということだけで言えば、評論本の場合、ネットの方がはるかに効率がいい。

しかし、自分はやっぱり本を出し続けている。
他人はどうか知らないが、自分の場合、それは「カネを出して、ブースに足を運んでまで本が欲しい」という人の熱量を感じたいから、ということが大きい。
どうも本質的なところで、ネットでの「反響」というのは信じられないところがある。逆に言えば、同人誌として出したときの反応の方が信じられるような幻想(そうです、それも幻想なのです)が自分にはある。

それはもちろん利益としては無形のものである。それが、自費出版ビジネスでコミケ同人誌の金銭感覚からすると倍額以上のカネを払って本をつくっている人の、「大型書店に行って、自分の本が1冊でも売られているのを見て悦に入る」ということとどれほどの違いがあるかというと、幻想の度合いということで言えば大差ないとも言えるんじゃないか、と思うんである。

勝手な想像だが、自費出版ビジネスで大枚はたいて本をつくる人は、本づくりを「儀式」的なものだと思っているのではないか。
自分史ブームだというが、自分の人生をまとめるということがそもそも「儀式」そのものである。
お参りに行って、お賽銭はずんじゃうみたいな。
印刷に関して無知ではあるにしても、多分にそういう要素があるのではないかと思う。

売れる売れないの問題にしても、「書店売りをする」ということは売れて欲しいのだろうが、じゃあだからといって、完全に売らんかなな内容にしたいかというと、自費出版をする人は絶対にそうしたくはないだろう。
たとえば自分史にしても、その人の人生の中で最も恥部だと思っている部分が最も他人にとって面白いから、そこの分量を他の部分の倍書いて出した方がいい、などとアドバイスしても、ぜったいに従わないに違いない。

だって「儀式」だから。儀式に実質は伴っていけないし、また神聖なものだから。

そしてまた、そういう「儀式」的な部分はコミケの同人誌も多分に持っている、とも思う。

まあ、だからといって払わんでいい金額を払わないでいいとは思いますがね。

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【映画】女番長 感化院脱走

THE 女番長(スケバン)全開ガールズパワーラピュタ阿佐ヶ谷

1973年、東映京都
監督・脚本:中島貞夫、脚本:鴨井達比古
出演:杉本美樹、叶優子、伊佐山ひろ子、渡瀬恒彦、城恵美、金子信雄、室田日出男、汐路章

不正がまかりとおる私設の女子教護院。度重なる脱走により、連帯責任を負わされていた院生(でいいのか?)からは嫌われ者だったるり子(杉本美樹)は、看守(?)の横暴にたまりかねた同室の女の子たちとまた脱走を試みる。
仲間たちと別れたるり子は、ドライブインで青年(渡瀬恒彦)の車に強引に乗り込むが、彼も逃亡中の強盗犯だった。
目的地に行くために一度はバラバラになった脱走メンバーは、るり子の「海へ行く」という言葉にあきれていたが、彼女たちもまた、目的を失って、るり子のいる海を目指した。

いやこれは面白い。中島貞夫の映画、あんまり見ていないが個人的には評判のいい「狂った野獣」より好きかも。私のシュミの問題になるんだけど、パターン化されたジャンル映画から少しだけ逸脱しているものが好きなようだ自分は。
というわけで「スケバン映画」や「女囚映画」のようでいて、中島貞夫の映画によくある感じでストーリーが横滑りしていく本作はかなりの好み。
だいたい「狂った野獣」や「鉄砲玉の美学」を見た後に、中盤から猟銃抱えた渡瀬恒彦が出てくるだけでニヤニヤしちゃうもんね。

クライマックスもやりたい放題でムチャクチャ。でもそれが最高なんだよな。パロディだとか自己言及だとか、そんな余裕かましてるヒマどこにあるんだバカヤロー的なせっぱ詰まった狂騒が心に刺さる。

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【書籍】・「奇人怪人偏愛記」唐沢俊一(2006、楽工社)

Kizinkaizin

唐沢議長のエッセイ集。
いつも驚くのだが、私の知るかぎりネタの使い回しというのが他の本と合わせてもひとつもない。もしあったとしても、必ず切り口が変わっている(でも、同じネタって本当に見たことがない)。
それくらい、まずネタとなるトリビアの珍しさ、面白さがあり、さらにそれをエッセイとして料理するのだから面白くないはずがない。

装丁がオトナっぽいから感じるのかもしれないが、10年くらい前のオタクブームが多分にコドモっぽいものの再評価といった印象だったのに対し、「オトナのシャレ」というか「オトナの役割を果たしたうえで、ふと日々の雑事に目を向けてみる」といったことを志向されているのかな、と思った。

何となく、お父さんの書棚に刺さっているのを中学生の息子が読んで、ハマってしまうような感じの本。「むずかしい本ばっかりだろうと思ってたら、こんなに面白い本が混ざってた」みたいな感慨があるかもしれない、というような意味で。

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らのべ

全部が全部そうじゃないかもしれないし、編集者に「そういうふうに書け」って言われているのかもしれないけど、
最近2、3冊ライトノベルを読んで気になったこと。

・「シュゴゴーッと飛んでいった」とか「チュゴゴゴッとジュースをすすった」みたいな擬音の表現
まあ、昔はマンガに擬音が使われていることに違和感を持つオトナがいたことを思い出して、自分もそういうトシになったかと思い返して自分で自分のことを苦笑してしまったんだけど、擬音がどうのこうのというのはどうでもいいんですよ。
夢枕獏だって、「けくけく、と笑った」みたいなこと書いてたし。

それより気になるのは、その「擬音」が明らかにマンガやアニメの「擬音」で、文章表現を通してマンガ的、アニメ的なシーンを想像してください、というそういう合図だろうってこと。
それは果たして文章で読む意味があるのか?

・異様に世の中を突き放した一人称の主人公
まあ、青春小説には昔からありがちなことではあるんだけど、今の方がキツい気がする。「なんでみんなくだらない話題で盛り上がってるんだろう?」ってクラスの休み時間の同級生たちを眺めてるみたいな、そういう描写が自然に出てくる。
最近、マンガの「ボーボボ」に出てきた「よのなかなめろう」だっけ?  クラスメイトを見下していて全員かかしに見えるヤツ。あれなんかはそれのパロディだよね。読んで10分くらい笑った。

・「ベタな表現だが……」とか「ありがちな言い方だが……」と書きつつ本当にありがちな表現
コレはいくらなんでもナシだろう。しかも、一人称の登場人物ならともかく、一人称形式でない場合でも、説明がそうなっている場合がある。この「説明をしている人」は小説世界のどこにいてだれに言い訳しているのか。もちろんこの場合はパロディではない。
昔、新井素子がデビュー作で「いかにもおじさん、って感じのおじさん」という表現を使っていて笑ってしまったことがあるが、そういうのはやめた方がいいと思います。

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【映画】狂い咲きサンダーロード

Kuruizaki

1980年、東映セントラル
監督:石井聰亙

実はワタクシのネット活動の中で、もっとも力を入れているもののひとつである

80年代にひたりたい!のコーナー(他の80年代関連作品に関しては、エントリの下の方にある「80年代」というところをクリックして見てください)。

今回は、近未来暴走族映画(?)の本作である。

あらすじは書いてしまうと面白くなくなるので書かない。簡単に言えば暴走族同士でケンカし、ウヨク団体が出てきてそれをまとめようとし、警察が出てきていろいろしようとして、それに従わないで従わないでツッパってツッパってツッパリ通した男の話だ。

以前、「最近のマンガは面白くない」という観点に対し普遍性を持たせようとして失敗したが、コレなら文句ないでしょー、私の私見なんだから……。要するに、「狂い咲きサンダーロード」みたいなマンガがないから面白くないし、「狂い咲きサンダーロード」を否定するような作品を読むと「金返せ」と言いたくなる、というそれだけのことなんです。
いいでしょー、これはあくまで私の個人的意見なんだから。

「80年代にひたりたい」ということと矛盾するが、「究極超人あ〜る」などと同様、優れた作品はその時代を超える何かを持っている。

たとえば、本作は架空の、廃工場のある街、そこの暴走族たち、謎の商売人、ナゾのドラッグ、クライマックスに出てくる主人公の付けるプロテクターなど、設定の何もかもがあまりにも(当時としては)新しい。
「マッドマックス」よりも公開は後だというが、おそらくそれの影響は受けていないし、マッドマックス2よりは明らかに新しい。「北斗の拳」より当然新しい。「AKIRA」よりも新しい。サイバーパンクよりも新しい。
70年代の、たぶんアメリカン・ニューシネマなどの影響を受けつつ、「暴走族映画」としての体裁を途中まで保ちつつ、そのままフワリと浮上して、爆音とともにどこかに飛び去ってしまったような映画だ。

私の知るかぎり、後続の有名作品で、まともに本作に影響を受けたと思えるものはそんなにない(あるいは、そうであったとしても作者が隠しているか)。その意味ではカルト映画である。
プロットの恐ろしいまでの反骨っぷりは、80年代にエンターテインメントの中でほとんど継承されることは無かった。そういう意味では、この映画を支持するような人たちにとっては80年代は迷走の10年だっただろう。

70年代の終わりから80年代初めの作品を見ていると、中には70年代の幕引きとして哀しいほどにマッチしてしまっている、ほとんどその主人公の末路そのものが、その作品の時代の中の位置づけ(破滅してしまうという意味ではなく、あまりにも見事に「終わり」を表現しているという意味)を表していると思える作品に出くわすことがある。
「太陽を盗んだ男」(79年)がそうだった。本作もそうだ。
どちらも、10年先を射程に据えていながら、発表年代での何かの終わりをピタリと見据えている。
しかも、今なお見ていて新しさを感じさせる。

なお、もうすぐ他の作品とともにBOXでDVD化されるらしいです。

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【イベント】鶴岡法斎のエログロハイセンスVol7

(以下、放浪都市から引用)
場所・ネイキッドロフト
2006年06月29日(OPEN18:30/START19:00)
¥1200 (+1drinkから)
遂に封印解除!「ねぎ姉さん」の作者が外傷性くも膜下出血を乗り越えて、マンガ、蟻、理系、自転車、テレーンなどどうでもいい話を繰り広げる。これは必見!!
【出演】
鶴岡法斎
新田五郎(ふぬけ共和国)
小林銅蟲(「ねぎ姉さん」作者)

会場者用のプレゼントや物販などする予定です。予定! あくまで予定!!
(引用終わり)

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【ドラマ】・「名探偵モンク」

Monk_1

NHKBS公式

VHS レンタル専用 2003/6/27発売:ユニバーサルピクチャーズ
2002年製作 米
監督:ディーン・パリゾット

何者かに妻を殺され、犯人を見つけられぬショックで高所恐怖症、潔癖症、過敏症、記憶の交錯などさまざまな神経症が併発してしまった元刑事で現在犯罪コンサルタントのモンク(トニー・シャローブ)。
彼は、刑事への復職を目指し私設看護婦シャローナ(ビティ・シュラム)とともに、天才的な推理力で難事件を次々と解決する!
1話完結の推理ドラマ。

アメリカで始まったのは数年前で、BSでやったりビデオ化されたのもけっこう前だけど、BSが観られないウチとしてはツタヤとかで借りて観るのに時間がかかったのよ。
ものすごく大ざっぱに言えば「刑事コロンボの神経症版」とでもいった感じ(あ、プロットとしては最後まで犯人やトリックはわからないタイプ)。

コロンボの面白さの一因として、決して社会的地位は高くない刑事のコロンボが、上流階級だとか知識階級の世界に食い込んでは犯人を捕まえてみせる、という爽快感があると思う。
で、本作では神経症によって休職に追い込まれたモンクと、彼の専属看護師であるシャローナ(バツイチで子持ちで教育もそんなにないっぽく、どこぞであんまり上品とは言えないダンサーをしてたとかいう過去がある)が探偵コンビとして、彼らをうさんくさく思う容疑者をとっつかまえるのが爽快である。

また、全編に渡ってコメディ的要素が強く、神経症を扱った少々ブラックなギャグ以外にも、たとえばトリックがいまいちでもギャグで取り返したりといったエピソードもあって、毎回あなどれないつくりになっている。

さらに、モンクの神経症は真剣に検証すると、何となくそれらを併発することはないんじゃないかという、たぶんありえない症状になっているんじゃないかと思う。そして、それがまたひどく一般の人にもありそうな感じなのだ。
人間関係や時間や、モロモロのことに追いかけ回されている人々にとって、モンクの症状は他人事ではないだろうし、そう思える人にとっては本作のペーソスが十分に理解できるだろう。

個人的にはどのエピソードか忘れたが、モンクを人間的には尊敬しつつ、刑事という職を考えて心を鬼にして復職に賛成しない警部や、
症状が強まったということで病院に入院したモンクが、病院内で隠蔽されている事件に気づいてしまい、しかし次々に証拠が無くなったりするために「自分はおかしいんじゃないか」と悩んでいるときに、シャローナからある方法で「あなたは正常よ」と書かれたメッセージが届くところなど(『事件5:重要参考人:サンタクロース』)は、泣けましたよ。

ビデオ化されている中で推理ものとして傑作だと思ったのは、ホテルでの殺人現場は目撃されているのに死体があとかたもなく消えてしまった『事件9:消えた証拠死体』、
飛行機恐怖症のモンクが機内で殺人の疑いのある男に遭遇、自分の証言を疑う乗客たちの間で殺人を立証しようとする『事件12:完全犯罪へのカウントダウン』かな。
とくに後者は「フライトプラン」なんかよりよっぽど面白いですよ。

また、本作では看護師のシャローナのキャラ立ちが魅力だったのだが、どうやら第二シーズンでは降板してしまったようである。次にやっているのはどんな人なのかなー。
それと、第二シーズン以降もビデオ化してほしいです。

あ、それと監督は「ギャラクシー・クエスト」の人なのね。そりゃギャグは冴えるわ。

『MONK ≪モンク≫』 全6巻
Vol.1『事件1:狙われた市長候補』
Vol.2『事件2:殺人現場で生まれた恋』『事件3:陰謀の観覧車』
Vol.3『事件4:億万長者の殺し方』『事件5:重要参考人:サンタクロース』
Vol.4『事件6:大地震のち殺人』『事件7:第一発見者は超能力者』
Vol.5『事件8:完全アリバイを崩せ』『事件9:消えた証拠死体』
Vol.6『事件10:盲目の目撃者』『事件11:復讐殺人はベッドルームで』『事件12:完全犯罪へのカウントダウン』

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【映画】聖獣学園

Seizyu

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1974年、東映東京
監督:鈴木則文、原作:鈴木則文、沢田竜治 
脚本:掛札昌裕、鈴木則文

「女が女で無くなるところ」だと自ら評する修道院へ入っていく多岐川魔矢(多岐川裕美)。彼女にはある目的があった。

……以前、オタクな友人がこの作品を見て「非常にガッカリした」とこきおろしていたのが印象的で、長らく観ていなかった。
しかし、どうもそのこきおろした理由は、「レズシーンがあんがい少なかった」とか「拷問シーンがあんがい少なかった」といった理由だったらしい。

薄いオタクである自分は、このテの妙な決めつけにずいぶん振り回されてきた。
若い人に警告するとすれば、「オタクがベタ褒めするものはまず観てみろ、オタクが酷評するものもまず観てみろ」といったところだろうか。
一般的にオタクと言われている人の大半は独自のこだわりを持ち、なおかつ語りたがりだが、その語りがきちんとこちらに通じるたぐいのものかどうかの保証など何もない。
みんながみんな、ソレができるのなら全員評論家かなんかになってるからね。

さて、本作。カルトムービー化してはいるが、鈴木則文監督の作品としてはまあまあの部類なのではないかと思う。
謎解きや因縁話を中途半端に複雑にして、中ダレがあるのだ。

それ意外の部分に関しては、悪役である神父(渡辺文雄)の「原爆の落ちたナガサキにも、アウシュビッツにも神は現れなかった」というセリフに象徴されるような、言いしれぬ、カタチを持った抑圧的なものに対するルサンチマン、復讐心が感じられるプロットが印象的である。
いわば本作では「修道院」とは「正しい偽善」とでもいったものの象徴であり、それをブチ壊すのが多岐川魔矢なのだ(クリスチャンの人は観たら怒っちゃうかもしれないが)。

なお、このテのアクションあり、お色気ありの東映映画のことを「東映ピンキー路線」というらしい。
おそらく長年(「映画秘宝」とかが出てくる前は)トラッシュ扱いになっていた作品群だと思うが、その中でもとくに本作のみ国内でDVD化しているのは、単に多岐川裕美のオールヌードがおがめるというだけのことからだと思われる(海外では、あまりにヒドイ修道院の描き方からカルト化しているようだが)。

さらに書きたいことがある。
以前、たまたま夕方の番組「レディス4」を観ていたらゲストが多岐川裕美だった。しかも「多岐川裕美が新人時代を振り返る」といったテーマで、東映の撮影所を訪れて「懐かしいわ〜」などと言う番組だったのだが、ここで彼女は、

「デビュー作で本当に大事にしていただいて、(ヘアメイクさんかだれか忘れたが)お母さんみたいな人がいて、その人と仲良くなって……」とか、
「デビュー作はたいへんで、もう二度と映画に出るのはやめよう、と思ったが終わったらまた出たくなっていた」などと言っていた。

それってもしかしてこの「聖獣学園」のことか!?
この映画の多岐川裕美ははっきり言ってヨゴレである。だからまあ、それらのコメントはその後も世話になった東映スタッフに対するリップサービスかとも思ったのだが、
ネットで調べたら彼女は海外DVDのインタビューにも出ているそうで、本作に関しては自分の作品であるという意識は強いようである。
多岐川裕美、エライよ。一服の清涼剤だ。

ところで、本作での彼女は確かにセリフは棒読みだが、不良の役で長ゼリフもそれほどなく、人が言うほど私は気にならなかった。

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【イベント】と学会presents「21世紀のトンデモ〜日本トンデモ本大賞前月祭〜」

Lコードが決定したのでお知らせ。

日本トンデモ本大賞を一ヶ月後に控え、99年6月以来、久しぶりのと学会ナイト!
ノストラダムス以降のと学会とトンデモをじっくりと語ります!

【場所】LOFT/PLUS ONE 新宿区歌舞伎町1-14-7林ビルB2
【出演】山本弘(と学会会長)、唐沢俊一(と学会運営委員)、皆神龍太郎(と学会運営委員)、植木不等式(と学会運営委員)、他
【日時】2006年5月3日(水) Open18:00/Start18:30
【料金】¥1000(飲食別) 前売はローソンチケットにて発売中

ローソンチケット発売方法
  Lコード 34139
   自動音声電話予約 0570-084-003(要Lコード34139)  ※発売以降24時間対応
   オペレーター予約 0570-000-777(10:00〜20:00)
   全国のローソン設置の「Loppi」でご購入頂けます。

●詳しい購入方法は、以下のローソンチケットのHPをご覧ください。
  http://www2.lawsonticket.com/pc/p54/manual/index.asp

●詳細は下記HPにて
http://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/plusone.html

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【アニメ】涼宮ハルヒの憂鬱 第1話

「自主映画(しかもダメダメなやつ)のパロディ」という第一話が賛否両論。
私個人はあまりにもそのパロディっぷりがよくできているのでひたすらに感心してしまった。
ただ、まあそれを第一話でやっていいかどうかだろうなあ……。
あまりのことに観た直後は絶賛したけど、冷静に考えれば作品の流れが軌道に乗ってポンッ、と1話完結形式で出される番外編、というノリのようでもある。
ただ、原作を知らないんだけど「自主映画を撮る」というネタ自体が、たぶん原作のプロットにからんでくるからこそ第一話に持ってきたんだろうけどね。

まあ、ギャグってむずかしいですよ。
私なんて「ギャラクシーエンジェル」の面白さがひとつもわかんないしねえ。
いい悪いじゃなくて「わからない」んだよね。

それにしても、アニメからすっかり離れてしまいましたよ。
ケーブルテレビとかでわりと話題作がやるんで、ワンシーズン全体でアニメ界を見る、っていうことができなくなっちゃったんだよね。少なくとも私は。
今、自分の個人情報明かしますが(笑)、東京に住んでてコレだもん。
DVDが出る頃には、もう忘れてるし。

あと、私はアニメに関しては異常に厳しいので、「何となく見ているとまあまあなアニメ」とかはひとつも見る気起きないんで(この厳しさが発動したため、「エウレカ」は第1話で観るのをやめた)。
それと女の子が主人公のアニメが増えたよね。男が観るのに、なぜか女の子が主人公のアニメが。
男の子が主人公でも、なんか別に女の子でもいいんじゃん? って感じのものが多い気もするし。

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【書籍】・「と学会年鑑YELLOW」と学会:著(2006、楽工社)

Togattkaiyellow

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年4回、行われる「と学会」例会で会員が発表したトンデモな本、グッズ、映像、その他モロモロを集めた本。
巻末には2004年の日本トンデモ本大賞選考の模様も収録、大賞も発表されている。

自分が書かせてもらっているから言うわけではないが、ホント同傾向の本であればヘタな若手芸人のネタ本の100倍はネタが詰まっている。大勢で書いているとはいえ、この濃さは驚異的。
また、発表の並びも絶妙だ。コレは並べた編集者の人の腕でしょうねえ。
会長から始まって、今回の目玉的な中国のトンデモ本の記事を混ぜつつ、一見バラバラなネタにきちんと流れが出来ていて、最後は志水一夫先生でシメ、という実に美しい構成になっています。

と学会関係の書籍の感想をネットで見ると、批判点が大きく分けて2つあって、
ひとつは「もっと方向性を持ってオカルトや疑似科学批判をきっちりやってもらいたい」的な意見、
もうひとつは、「トンデモ本を楽しむのが団体の主旨なのだから、方向性のはっきりした批判はいかがなものか」といった意見。
要するに、相反する意見があるようです。

私個人の意見としては、「非・主流」を貫くというのはむずかしいものなのだな、ということですね。

それともうひとつ、「オカルトや疑似科学系のトンデモ本紹介が読みたいのに、ネタがそうでないのが多い」みたいなのもある。
コレは、疑似科学系とはちょっと離れたところでネタ探ししている私としては少し寂しい意見です。

しかしですね、オカルト、疑似科学系に絞ったら出てこなかった面白いことってたくさんあるし、ここも読者の意見が分かれるんだけれども、そういうものに対して冷酷なツッコミはできないですよ。
そこが、宗教・オカルトがらみのトンデモとそうでないものとの違いという気がします。

詐欺まがいではない、「下心なくリリースされたもの」に対して、冷たい揚げ足取りよりも愛のあるツッコミが必要だと、私は思っているし実際多くの場合、そうなっていると思う。

第6回(1997年) の日本トンデモ本大賞が、オカルト本ではなくポルノ小説の「発情期 ブルマ検査」であったことの意味は、私個人は意外に大きいのではないかと思っています。
もちろん、プラスの意味でね。

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【イベント告知】・『日本トンデモ本大賞2006開催記念 トンデモ本大賞前夜祭』

場所/日暮里サニーホール
出演/立川談之助、快楽亭ブラック、唐沢俊一、大東両(ガンダム紙きり)、雷門獅篭
日時/2006年6月2日(金)  6時00分開場 6時30分開演
料金/予約2500円 当日2800円
●予約・問い合わせ/03−5333−6433(談之助)
●メール予約/dan@mri.biglobe.ne.jp
と学会公式

「トンデモ落語の会」などに出演している方々。
大東両さんは、実際に切っているところを私は見たことがないんですがかなりお年をめしていらっしゃるにも関わらず、ガンダムの登場人物を切り絵で切ってくださるということです。
切り絵自体は見せてもらったことがありますが、それは見事なものですよ(紙きり1年戦争)。

獅篭さんは「風とマンダラ」などを描いていた、マンガやイラストが描ける落語家さんですね。

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【映画】女番長(「女番長ゲリラ」とはまた別の映画です)

THE 女番長(スケバン)全開ガールズパワーラピュタ阿佐ヶ谷

1973年、東映京都
監督・脚本:鈴木則文、脚本:皆川隆之、大原清秀
出演:杉本美樹、池玲子、荒木一郎、宮内洋

少年院送りの護送車から脱出した女番長・関東小政(杉本美樹)は、他の連中をたばねて「ジプシー団」を結成、京都で番を切ろうとするが……。

毎回パターンは決まっていて、関東モンのヒロインが京都で他のスケバンのシマを荒らしケンカ。その次には手荒いペテンなどで大金を稼ぐが、地元のやくざに根こそぎ取り上げられてしまう。
不満がうずまくヒロインたちは、地元やくざとさまざまな因縁から対立し、クライマックスではやつらを叩きつぶすことを決意する……というところは、今まで見たのと同じ。

しかし、同じでもいいんだよなァ。とくに地元やくざにコキ使われ、恋人の摩耶(池玲子)まで売ったあげくに虫けらのように殺される宮内洋の最後の見せ場よ!!  もう男泣きだよ。
そして、そのシリアス描写の後、戦い終えて去ってゆくスケバンたちの趣向の面白さ。元ネタがあるかどうかはわからないけど、異様にさわやかで見ていてすごくスカッとした。

そして印象的な脇役が、ブルーフィルムを撮っているうさんくさい若者(たぶん荒木一郎)。この頃の荒木一郎のチャラさにも感動。
マジメすぎて破滅していく宮内洋との対比として描かれていると思うんだけど、もうたまらないですよ。

池玲子も、あいかわらず激エロだったしね。
大原清秀は私にとっては「じゃあまん探偵団魔隣組」などで、浦沢義雄と双璧にいい意味でバカバカしい脚本を書いていた人、ですね。

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