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・「素晴らしい世界」全2巻  浅野いにお

・「素晴らしい世界」(1) 浅野いにお(2003、小学館)[amazon]

・「素晴らしい世界」(2) 浅野いにお(2004、小学館)[amazon]

フリーター、プータロー、クラスで孤独になってる少女、浪人生。

そういう「今ひとつ人生で停滞している」、「あと一歩を踏み出しかけている」人々を描いた短編集。

結論から言うと、
「ちょっとこじゃれてて、ときどきよく知らない海外のミュージシャンのCDレビューかなんかが入って、しかし全編に渡って軽い鬱状態に襲われている若者の書いたブログ」を読んでるみたい。
あるいは、
「簡単に絶望し、そしてまた簡単に希望を見いだして、常に騒いでて、どっちにしろ他人の目線を気にしないとやってけない、しかも酒グセの悪い友人に付き合わされている感じ」とでも言おうか。

私からすると、その絶望も希望も青すぎて話にならない。絶望は作者が若いんだから青くてもいいとして、問題は希望も青すぎるということだろう。
希望にリアリティがないから、いくら読んでも読んでも、ちっともスッキリした気持ちにならない。
めんどくさい友人のグチをきいているような気分になる。

しかしまあ、就職や結婚を控えた人間の不安感なんて答えはないだろうから、そういう軽いレベルでの絶望/希望を描いたという点では、現状の若者の心境としてリアリティがあるといえばあるのかもしれないですね。
ある特定の作品において、読者が「共感」するというだけのことに、どれだけの価値があるのかは私にはわからないけれど。

さて、本作を読んで思うのは「青春」という言葉の神通力はつくづく無くなってしまったのだなあ、ということ。
「青春」とは、「青春してる」とか「これが青春だ」というように、言葉本来の意味はともかく、それだけで「善きもの」として物語内では扱われるのが常であった。
それは、「若者」が「単に経験未熟な大人」でも「大きすぎる子供」でもない、特別な存在なんだという凱歌であった。
「青春」を語るということは、その特権性を高らかにうたうという意味があった。

(だから、70年代から80年代のアクション映画や少年ジャンプなどに頻繁に出現する「大学に行って親のクルマに女の子を乗せてチャラチャラしているやつら」に対する勤労青年の呪詛は、貧富の格差の問題というより、むしろそれが高度成長期に急速に是正される中で、足並みが揃わないことに対するルサンチマンだと考えた方がいいかもしれない。
それまでは「大学で女の子とチャラチャラする」若者など、どこにもいないか、数は極端に少なかったと思われるからだ。)

「青春してる」という言葉がある種の恥ずかしさをもって語られるようになったのは、私の知るかぎり80年代に入ってからだが、それは「青春」という言葉に内在する「権利」を、若者自身が手にしつつあったからだと言っていいだろう。

それまでは「青春」はスローガンにすぎない部分があった。だから「青春、青春」と叫ぶことに意味があった。
たとえば80年代頭まで、少年マンガに「青春もの」はあっても「恋愛もの」はなかった。「恋愛」は「青春の悩み」のワンオブゼムと捉えられていた。
しかし、ようやく「青春」のあり方が、まずまず平均化していくにおよんで、「恋愛もの」は少年のエンターテインメントになっていく。
当然、その果てには「ギャルゲー」とか「エロゲー」とかがあるが、それはまた別の話。

本作「素晴らしい世界」では、むやみに若者を突き上げるような「青春」というスローガンはどこにも存在しない。何かをがんばろうとすれば、常に価値相対主義が邪魔をする。 しかも、現状の日本で飢えて死ぬことはないわけだから、尻に火が点くというマイナスの状況も、そんなに切実ではない。
切実ではないからこそ、ジャンプすることができない。

恋愛やセックスや人生の目標は、「青春」という(まあ、マジメに考えてみればありもしない)理想郷を我がものにするための必須アイテムであった。
しかし、本作に登場する恋愛もセックスも、すでにそういう「それそのもの」以上の価値を付与されていない。だから失恋で大きく落ち込む話もなければ、「自堕落なセックスに耽溺しまくる」という話すら、ない。
ひとつひとつのことが、恐ろしいまでに矮小化されてしまっている。

あるいは別の言い方をすれば、
登場人物たちがおそらく幼少の頃から教え込まれてきた、目の前にぶら下げられてきたニンジンのような、オトナたちが言っていたような素晴らしい生活がどこにもないということ。
そういう甘いエサをまいてきたのはだれか、というと、それは本当は本作にはあまり登場しないオッサン・オバサンたちだと思うが、それには本作に登場する若者たちはほとんど気づいていないようである。

「青春」というのがスローガンにすぎないことは、さすがに80年代あたりでだれもがわかっていた。しかし、反面、「理想の大人」というものがかろうじて残っている時代でもあった。ところが本作が描かれた2003年頃は、そういうものもなくなってしまっている。

「理想の大人」にも二種類あって、
万年青年のような、若者にとってストレートに憧れられる存在と、
地に足の着いた、夢を捨て去って、あるいは折り合いを付けて現実に生きる存在とである。

だが、本作ではそのどちらも登場しない。
(短編として、三十代以上の大人の登場する話もあったが、そこに登場する大人にも「理想」と「現実」の二元論しかない印象であった。それは社会に出たことのない若者の発想だと思う。)

まあ簡単に言うと、「理想」も「手本となる現実」も、あらかじめ剥奪されているんだよな、このマンガに出てくる人物たちは。
表題どおり、ラストに少しだけ希望が示される話が多いが、作者は「こうあったらいいな」みたいな、祈りに近い心境で描いているんじゃないか。
正直、そうとしか考えられないくらい説得力ないんだよなあ。
そして、その「説得力の無さ」が今風なのかもしれないけどさ。

あまりにも「青春」とか「理想」とか、そして「現実」さえもが矮小化されてしまったために、それを思い切って捨て去ることができない若者たちを描いた、という印象を持った。

まあ、社会に出る直前か、社会に出たての若者の心境としては、現状ではこんなものなのかもしれない。
しかし、こういうことばかり描いていると、作者自身が数年後には劇的に変わるような気がするし、またそうでなければならないと思う。

私は本作においては作者の「問い」の立て方が間違っているから「答え」も正しくはないと思う。何か別の問題設定の方法があると思う。

本作のある短編の中で、主人公の青年の、いつもラリっている友人が車にはねられて、宙を飛んで死ぬ。
しかし、主人公たちは友人が死の瞬間「空を飛びながら笑っていた」ところを見て、ほんの少しだけ希望を持つ。
ものすごい消極的な希望。
ハックルベリィとトム・ソーヤは青春ものの類型的なキャラクターだ。ブッ飛びすぎるやつと、まだしも地に足の着いたやつと。しかし、本作ではハックルベリィ的な人間でさえきわめて矮小化されている。端的に言って、みみっちい。哀しい。

「何でいろんなことがこんなにみみっちくなってしまったのか」という答えに、この作者は到達できるんだろうか?
あるいは、わからないことをわからない、というふうに描くタイプの作家になるのか?

わからんし、どちらにしろ「もうこの世は終わりだ」と、いつものように思った私であった。

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