【創作小説】・「超巨人 ライトニング・ギガント」

「超巨人 ライトニング・ギガント」
十年に一度、日本の都心部に飛来し、暴れまわる巨大生物「邪壊獣」を倒すため、「水晶の国」からやってきた「ライトニング・ギガント」と合体し、戦う雄須田ユウジも今年は五十歳。ミドル・エイジ・クライシスというもうひとつの敵を相手に、果たして彼は「邪壊獣」を退けられるのか!? 悩める中高年アクション。
まあ、私の自己満足です。ただあまりに読まれなくてもさびしいので、本当は読んでほしい。でもけなされたくない(笑)。まあ、アマチュア小説書きの人たちは大半がそう思っているでしょうけど。

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【お笑い】・「ジャルジャル問題」

【M-1】映画「火花」を見て、ジャルジャル福徳の涙に思うこと(ナガの映画の果てまで)

上記のブログのエントリ、ツイッターなどで評判が良いので読んでみたが、私は少々異論があるのでその点について書きます(全体通して、大きな違和感があるわけではないのですが)。

(引用開始)
 (ジャルジャルの)直前に登場し、上沼恵美子に酷評されたことで話題になっている「マヂカルラブリー」がやったのは漫才かどうか怪しいラインのネタでした。2人の会話のかけあいを基調とする漫才というシステムからはあまりにもかけ離れていました。だからこその低評価だったとは思います。
(引用終わり)

 いやああいう漫才、昔からありますよ。根本的に上記の引用部分で疑問なのは、M-1出場者は準決勝までに数度の審査を経ているわけです。本番のM-1の前にね。ということは、数度の審査の中で、決勝までの審査員が「漫才というシステムからかけ離れているネタだけど、まあ受からせちゃおう」というような話があったのか、なかったのか? 決勝にあげても低評価だろうと、準決勝までの審査員が思って受からせているのか? ということです。
そんなことはないでしょう。
準決勝までの審査員と、決勝の審査員の好みが著しく異なる、ということも考えられますが(R-1ぐらんぷりなどは、「そういう感じ」をすごく感じるときがある)、そこは微妙なところだと思います。

私が今回のM-1の「マヂカルラブリー」を見て連想したのは、2006年に決勝に出た「変ホ長調」です。言うなれば飛び道具、ひっかきまわし役だったのではないかということです。
(この間のキングオブコントにおける、「にゃんこスター」の役割です。)

で、「変ホ長調」もそれほどハネなかった。松本も、どこか「特別枠」みたいな、悪く言えば「みそっかす」みたいな扱いをしていた。
M-1では、こういう「ひっかきまわし役」が毎年出ているわけでもないとは思いますが、飛び道具的な漫才は、審査員に受けが悪いですね。
それは今回の「ジャルジャル」の順位にもつながっていると思います。

今回の「ジャルジャル」のネタは、コントでやっていた「おばさんを、学生が『おばはん、おばはん!』と展開もなくずっと言い続ける、というネタや、擬音をゲームのように言い合う、というネタに似ていると感じました。
そして、それらの方は実は「コント」としては「普通に成立している」んです。
「普通」というのとはちょっと違いますが、「先進性がある」というのとは違っていた。

だから、今回のジャルジャルの漫才が新しいとしたら、問われるのは、
「コントでまあまあ普通に(それでもとがったネタですが)成立していたネタが、なぜ漫才だと斬新なのか?」ということではないかと思います。

私もジャルジャルが努力家だということは否定しませんが、私個人としては、「バカルディがさまぁ~ずになり、海砂利水魚がくりいむしちゅ~になって捨てて来たこと、ポップ化への道を歩んだことを、ずっと拒み続けている」というふうにしか見えないんですよね。
もちろん、「同じようにしろ」とは言いませんが、最初から「とがっている」ということで、いばらの道を歩んでいるのだから、それはこういう結果だろう」というふうに、観えてしまうんです。

繰り返しますが、ジャルジャルが努力家で、芸人として真剣にいろいろなことに取り組んでいることは認めます。

ただ個人的には、リンク先の文章はあまりにウェットすぎて、ちょっと納得できませんでした。
で、これはM-1そのものにまつわる「あまりにも真剣すぎる」という、番組の特性から来ているのだとも思いますけどね。

だとすれば、なぜM-1のファンは、リラックスして笑うものである「漫才」を、過剰なまでに真剣に観てしまうのか」という疑問が持ち上がってくるのですが、それはいつかまた。

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【社会全般】・「生の果ての死をつくることは罪か」

ある人の「子供をつくることは人間のエゴにすぎず、生の果ての死を確実につくり出すという点において、戦争とそう変わりない」(大意)という意見が、本気にしろ、たとえ冗談にしろ、ショックすぎて倒れてしまった。
人類がいない方が地球に優しいから、いいのだという。

「子供をつくるのは親のエゴであり、それ以上のことはない」というのは、近代的で個人主義的な考え方だろう。個人主義を徹底すると、そうなるのかもしれない。
(通常は、子供をつくり、育てるときに「まったくの自分のエゴ」と考える人間はそうはいないだろう。いい悪いは別にして「親に孫の顔を見せたい」という常套句もあるし、「人類や日本人の次世代にバトンを渡す」という意識が、少なからずあるはず。あるいは、前に書いたが「日本人的な輪廻観」が無意識的にもあると自分は考える。何より、生まれてくる子供への責任がある)。

この「子づくりは戦争と同等に罪深い」という考えが衝撃的なのは、「ミーム」の伝播をも否定していることだ。
だって、子孫がいなければ伝えるミームを受け取る人間がいなくなるわけだから。

「自分は子供はつくらない」という人も、「ミーム」の永遠性を信じている人は多いと思う。私も無意識に信じているところがある。
が、それすらも否定するというのは恐ろしい話である。

この人はアーティストなので(どんな作品をつくっているのかは知らない)、多少、極端にものを言っているのかもしれないが、「徹底した近代、ポスト近代」にみえる、たとえば、社会主義国家が独裁化したり、超管理社会になったり、戦争を引き起こしたりするグロテスクさと、同じものを感じる。

(余談だが、イスラム過激派の「残酷さ」とは正反対に位置する考えだと思う。あちらは前近代的社会を近代社会に対抗させて復活させる、という大義名分で、たぶんやっているので。広義の「イスラム社会」の存続を前提にしないと、自爆テロだってやる気が起こらないだろう。つまり「自分は死んでも自分の愛する社会は続く」という考え方がないと。)

ぜんぶがそうではないと信じたいが、このような、フェミに対して多少はまともだと思える発言をしている人が、とんでもないことを言っているのをみると、「結局は言葉遊びかよ」と思わざるを得ない。

話は飛ぶが、私がとりたてて信奉しているわけではないがツイートを観ている哲学者がいる。
彼は、60年代の赤軍や連合赤軍のテロリズムを、共産主義革命の一端とは観ず、「戦争はなんだかんだ言って、不可避的に起こるものだ」という前提を認めたうえでの、太平洋戦争の「再戦」なのだとする特殊な見方をしている。
この考えに妥当性があるかどうかはともかく、感覚としては理解できる。というのは、この見解にはおそらく根底に「戦争で拳銃バンバン撃ち合って、大義の中で死んでいきたい」というカタルシスがあるからだ。
こういうのは幼児的な妄想にすぎないかもしれないが、勧善懲悪のバトルもののフィクションは結局は「そんなカタルシス」を追体験しているのだから、まったくトンチンカンというわけでもない。
最低限に見積もっても、夢想して酒の肴にするくらいの価値はある。

しかし、「子づくりは戦争と同等の罪」という考えはどうだろう。そこにはカタルシスもないし、ダイナミズムがない。ただただ静かな「無」が広がっているだけである。
フェミニズムにかぎらず、思想や哲学が何年くらいの「鮮度」を保つべきかはいろいろな考えがあるだろうが、もしも「子づくりは戦争と同じで罪だからやるべきではない」という意見が浸透したら、一世紀くらいで人類は滅亡してしまうかもしれない。
しかし、私がこうした考え方にショックを受けたのはヒューマニズムからではない。フェミニズムという「社会改革」と、「(子づくりをしないことによって結果的に)社会そのものを機能不全にしてやがて壊滅させる」という考え方がまったく矛盾しており、そこにカタルシスも崇高な大義を(勘違いだとしても)担うという喜びもないからだ。
まったく何もないからである。

別に刹那的に生きるのが悪いとは思わないが、だとしたら理屈などこねていても仕方なくはないか。
そうした「矛盾」を感じて、「こんな頭のおかしい理屈を知ったのは初めてだ」という感覚がある。このことについて考えていると頭がおかしくなる。当然だ、矛盾しているのだから。

こういう「混乱」を目の当たりにすると、言いたくはないが「やっぱりフェミニズムって、近代から生まれたから、近代そのものの矛盾はつけないのだな」と思い、絶望してしまう。

なお「人類がいない方が地球に優しい」という考えが私は個人的に嫌いで、理由は「人類がいなくなった地球を、いったいだれが『汚されなくてよかったね』と評価するのか?」という矛盾があるからである。

個人的には「地球」の「状態」を「評価」するのは人類しかいない。
人類がいない状態を想定して、地球がきれいだの汚いだの論じても、何の意味もない。
(この辺は、ごくたまにSFマンガなどにも出てくるテーマではある。)

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【アイドル】・「アイドルが何かの代替物だったら、応援する必要ないだろうが」

2012-12-10 浜野『なんとかはキリストを超えた』:あきれた。

たまたまネットウロウロしていたら、またこのテキストを目にした。
書かれた当時も、読んだのだが。

「前田はキリストを超えた」は、刊行当時「アホか」と思っていて、読んでない(実は買ってしまったので家のどこかにある)。
山形浩生先生のこのレビューも、そのとおりだ、山形先生よく言ってくれた、と2012年当時思っていたが、今現在、このレビューを読みなおしても、希望のキの字も浮かんでこない。そもそも山形先生の文章で「感心」したことはあっても、希望を持ったことはない。

2012~2013年当時、AKB48をわざと間違えて「アキバ48」って書くのってくそださいし、結論から言って「いい年こいたキモヲタは、社会によって大目に見られているんだよ。勘違いするなよ」とダメ押ししているから、まあそれが世界的な絶望感ではないにせよ、極私的な絶望感ではある。

そういう意味では、2017年末の私は、著作を一冊も読んでもいない濱野智史氏には少しだけ同情的だ。
というのは、「ハマったジャンルが、世界を変えてしまうのではないか」という言説は、アイドルにかぎらずチラホラあるからだ。
BLについてそう語っている人もいた。クラブ文化についてそう語っている人もいた。

文中では「アキバ48なんて、そんな崇高でも偉大なものでもないのは、ファンたち自身がよく知っているはず。かれらは、自分たちにやっていることがつまらない何かの代用行為なのも十分に承知しているはず。それでも、ほとんどのファンは、自分たちがキモヲタであることを十分に承知しつつ、それを半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止めているはず。」と書いてあるが、AKBファンの人には悪いが、それは大衆をかいかぶりしすぎというものだろう。
もちろん、AKBファンにはそうした高度な自己評価能力を持っている人もいるかもしれないが、大半は「別に何も考えていない」というのが正しいはずだ。

(たいしたことのないものが好きな自分を半ば自虐的に、なかば胸を張って受け止める」という態度は、90年代くらいの「サブカル的」な態度であって、2012年の段階で、そのような「態度」があるかどうか、私は知らない。
たぶん、そのような屈託は、オタク全般にはもうないと思う。

そして「何も考えていない方が正しく、何かを考えたにしても間違った方向に行った人間は正しくない」と言うのは、言い方は悪いが「大衆」は「特殊学級生」扱いだから山形は批判せず、濱野氏に対しては「おまえも大学院出てるんだからしっかりしろよ」と言っているに過ぎない。

「自分の絶望に他人をひきずりこもうとする人々」は、何もインテリでなくても存在する。むしろ「前田敦子はキリストを超えた」の内容を丸飲みしている人より、日常的に「世をはかなんでいる人」の方が、世間的には迷惑だと言える。

数年前に、同じテキストを読んだときと私の心境が違うのは不思議だ。別にその間に、アイドルヲタクになったわけでもないし。
しかし、私にとっては前田敦子をキリスト扱いする濱野も、「アイドルファンは濱野よりはマシな見識を持っている」という「大衆観」を持っている山形も、「AKBグループについて」ということで言えば、たいして変わらない。

インテリも、大衆からの支持がなければたいていは生きていけないので、変な色気を見せることがあるが、そんな屈託、おれの知ったことか。

ささくれがちぎれて、血でもちょっと出せ。

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