【イベント】・「かに三匹&新田五郎のアニメとマンガのマニアックな話をユルく語る会Vol.4」

場所:高円寺パンディット
1月7日(土:昼)
「かに三匹&新田五郎のアニメとマンガのマニアックな話をユルく語る会Vol.4」 かに三匹、新田五郎、OPEN12:30/ START13:00 面白トーク満載だよ

タイトルまんまの超絶ゆるいイベントが好評につき第4回!!

お互いの語りたい「10キーワード」を2時間かけてユルユル消化していきますww

<かに三匹キーワード>

・この世界の片隅に
・売れない同人誌の処分問題
・イベントのテーマが決まらない

・アキバに最近行かなくなった
・90年代のアーケードゲーム


<新田五郎キーワード>

・サイボーグ009
・言いたいことをネットで書くと友人が減る
・邦画のマンガ、アニメ実写化問題

・おすすめバラエティ番組

・ナンシー関とは何だったのか


映像や画像も気の向くままに紹介します。


【出演】

かに三匹(これがホントの神アニメ)

新田五郎(ふぬけ共和国)


OPEN12:30/ START13:00

前売り¥1500 / 当日¥1800(共に飲食代別)


前売り予約は、下記予約フォームまで
※「お名前 / チケットの枚数 / メールアドレス / 電話番号」をご明記ください。
お問い合わせ:090−2588−9905(担当:奥野)

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「いつやるか?」「しらねー」

林修「仕事をするのに好きかどうかは関係ない、重要なのは勝てる土俵なのかどうか」


林修先生は自分が予備校教師であることにコンプレックスを抱いていた。その裏返しがこの「一流論」になっているはずだ。

上記のことは、あえてググらずに直観的に感じたことだ。なぜそう思ってしまうかというと、私が予備校生時代の1986年、代ゼミではそんな先生がたくさんいたからだ。

私はその後の予備校の歴史を知らないが、少なくとも1986年までの段階で、「予備校」というものを旧来のものから刷新したのはその時代の予備校教師たちの功績だと思っている。彼らは大学受験を研究し尽くし、おそろしく緻密なデータで斬新な勉強法・解法を開発したりしていた。

だが、彼らのコンプレックスは、当時19歳の私にも感じられることだった。

まず彼らのコンプレックスのひとつとして、「学生運動の敗者」という意識のある者が少なからずいた。だからこそ、当時の河合塾で、文化人(詳細は知らないがおそらく左派の)を呼んで講演会などをやった「河合塾」が叩かれ、60年代後半あたりの学生運動のリーダー的存在だったという、駿台予備校の講師が「沈黙を守り続けている」として称賛されたのである。

「活動を続けるより沈黙を守っている方が格上」という認識は、当時の学生運動崩れの予備校教師の屈折を如実に表している。

あの、のらりくらりとしていたイメージのある「金ピカ先生」まで、講義中にある自民党政治家の名前をあげて賞賛するという謎の言動が観られた。というか謎でも何でもない、その政治家にぶら下って議員になろうとしていたのだろう。

(後にその政治家は汚職か何かが見つかって失脚する。金ピカ先生は別ルートで選挙に出るが、議員にはなれなかった。)

もうひとつ、予備校教師のコンプレックスというと「公式な、アカデミックな場に出れない」というものがあるようだ。ある英語講師は「美学」が専攻で、大学には「空き」がないため、それの順番待ちをしているということだった。

別の世界史の講師は全共闘世代よりもう少し年齢が上で、講義中にも全共闘批判をときどきやっていた。彼の世界史の副読本(というより立派なハードカバーの本だった)は私も受験時に愛用したが、彼が「アカデミックな正しさ」を念頭においてその本を書いたことは明白だった。

あれから何十年も経ったから、林修が当時の予備校講師と同じメンタリティではないのは明らかだが、東大卒の彼にとって「予備校講師」という職業そのものが「一流の仕事」ではなかったのは想像にかたくない。

コンプレックスの裏返しから「一流とは?」を語るというのは、私にとってはこのうえなくカッコ悪いことなのだが、まあ本人が満足していれば、それでいい。

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【ジェンダー】・「悪いのはりゅうちぇるか???」

このテキスト、まず「りゅうちぇる」自身が、「いわゆる男らしい男」ではないところにはまったく触れないんだよね。

ぺこ&りゅうちぇるというカップルa自体が、そもそもが「お茶の間」レベルのテレビに出る者としてはそれまでなかった「同棲カップル」であり、りゅうちぇるは私が当初「おねぇ」と間違えたくらい、いわゆる「男らしさ」とはほど遠い存在。

だから実は、ぺこ&りゅうちぇるが入籍前にテレビに出ていたことは画期的だったし、りゅうちぇるが「おねぇではないけど何かナヨナヨしたキャラ」としてタレントをやっていたこと自体が、性役割の抑圧から世間が解き放たれつつあるということなんじゃないかというところは、無視している。

りゅうちぇるが、吉田沙保里選手に対して「自分磨きをしなくていい、努力しなくていい」と言っているのは、このブログの論者の主張のとおり、「吉田沙保里は、どう生きたってよい」と言っている。

「女の子らしいから」というのは、相葉くんの質問に、「吉田沙保里は、強くて女っぽくないから結婚できないのでは?」という意味が含まれていたから、それに対するフォローでしょう。

個人的には、「男らしさ」、「女らしさ」ということをこじらせてわけがわからなくなっているのは、このブログの論者だと思いますね。

最近はこういう「もう、何をしたらいいのかわからなくなっている」テキストが増えたように思う。

送り手だってバカじゃない、いつまでも「男は男らしく、女は女らしく」と思っていない人だって大勢いるだろう。

そうすれば表現は複雑化してくるし、今回だって抑圧の意図はないだろう(無意識に抑圧している、という理屈は当然あるにしても)。

でもそういうのに食ってかかる人が出てくる。

私がタレントとしてのりゅうちぇるが嫌いで、悪口を書きまくっているのを知っている人は知っているだろうけど、彼自身がもともとこういうキャラクターなのなら、むしろLGBTでは「ない」がゆえに、抑圧を受けていたかもしれないとか、そういうことは考えたことないのかね。

ここで非難されるとしたら、それはりゅうちぇるではなく、変な質問をした相葉くんか、彼の台本を書いた人、ということになるだろう。

なお、まさかとは思うが、りゅうちぇるが「ヘテロなのに、異性愛者の雰囲気をまといつかせてタレントとして金を稼いでいる」なんて思っちゃいないだろうね。まあそこまで深くは考えていないか。

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アイドル談義

ツイッターで、複数の人から同じブログのある文章がリツイートされてきた。

リツイートというのも、なかなか面倒くさい。だれがリツイートしてきたかで、文脈が変わってしまうからだ。
「ぜひ広めたい!」なのか、「しょうがねえなあ、こういうの」という苦笑まじりのリツイートなのか、それとも否定的なものなのか(否定の場合はさすがに、コメントするだろうが)。
そのリツイートしてくる人の背景がわからないと、わかりづらかったりするのである。

で、そのブログは、とある上り調子のアイドル(っていうか乃木坂46)のヲタが、「乃木坂こそ最高!」とのぼせあがっていてウザいということであった。
そのブログの文章は、「他のアイドルを観てないからそんなこと言えるんだろ」ということが趣旨で、そのこと自体は間違ってはいない。

確かに、過去にも「このアイドルグループは、過去のアイドルグループとは違うんだ!」と強く主張されるグループがあった。
AKBだって「前田敦子はキリストを越えた」という発狂した本が書かれているのである。
Perfumeやももクロ、ベビーメタルなども、熱狂的なヲタから「それまでのアイドルとは違う」と言われてきた。

アイドルに対してファンが熱狂的になるのはめずらしいことではないが、果たして自分が推すグループが、アイドル史の中で本当に「特異な」グループなのかは、アイドル史および同時代の他のアイドルグループを知らないと判断のしようがない。

しかし、やはり熱狂してしまうと「ウチこそ最高!」となってしまうようである。
まあそんな文章だった。

それにしても、その文章を読んで気分が悪くなった。それは、最初は「乃木ヲタ」を事例にした「熱狂的なアイドルヲタ」についての批判だったのに、途中から乃木坂46そのものに対する批判になっていたことだ。
いわく「やる気がない、ダンスがへた」、「東京女子流の方がずっとがんばってる」など。

確かに、他のアイドルを知らないと自分の好きなアイドルとの比較ができないのは確かだが、歌やダンス、寸劇でもいい、何らかのパフォーマンスが一級品でも、それとそのアイドルグループが「すばらしい」ものかは、ぜんぜん別の話である。

かつて秋元康(とそのグループ)は、「おニャン子クラブ」という、目に見えて「やる気のない」アイドルグループをつくった。秋元康のプロデュースは、もちろん全部が全部ではないが実は「やる気と魅力は関係ない」ということを裏テーマにしているものも多い。
芸能に関してまったくのシロウトの女子大生だったり、番組スタッフだったりを引っ張り出してきて「歌手」にしたてあげたりしたことがそうである。

というか、そもそも「とんねるず」自体が別にプロの歌手でも何でもなかったわけだし。

時は移り、(秋元康とは直接の関係はないが)「モーニング娘。」以降、アイドルは突出して「努力」が全面に出るようになった。そしてそれをファンも受け止めるようになった。
80年代は、「ラクして儲けたいなあ」みたいな雰囲気が日本全体にあったが、不景気な90年代以降は「努力しているイメージ」は不可欠だったと思われる。

AKB発足から売れ始めるまではどうだったか知らないが、「総選挙」が行われるようになった2009年にはもう「努力」の要素は出てきていただろう(AKB発足は2005年12月)。

しかし、当然だが、努力したからって成功するわけではない。
「やる気がない」と言ったって、明確に、たとえば観客の見えるところでサボっていただとか、そういうことでもなければ「やる気がないかどうか」など、観客がわかるわけがない。
むろん、「やる気がないように見えた」と書くことはできる。しかし、それでもやはり努力と人気とはイコールではないのだ。

リツイートされてきたブログでは、アイドルたちが「アーティストになりたい」と言ったことに対し、「努力がともなっていない」と説教じみたことを書いていたが、アイドルが憧れる「アーティスト」でさえ、バックダンサーの方がよほどダンスがうまかったりするのである。
また、「アーティスト」の定義も定かではないが、小室哲哉が「アーティスト」という言葉を使って、当時「アイドル」イメージを「古いもの」とした経緯も忘れてはならないだろう。

とにかくそのリツイートされてきた文章のレベルが低すぎて、本当にやる気をなくした。
一日経っても気分が悪いので、こうして長文を書いた。

疲れたので、終わる。

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